04 キーホルダー
ばきん、と足元で嫌な音がして、役者はのろのろとその視線を落とした。
――鍵につけていたキーホルダーが、真っ二つに割れている。
「……マジかよ……」
はあ、と溜め息ひとつ。鍵を引き抜いてから、役者はその場に屈み込んだ。割れてしまったキーホルダーの断片は鋭利で、触れるだけで指先を傷付けてしまいそうな光を放っている。それはまるで今の自分のようだなんて考えて、役者は静かに自嘲した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
すべて順調だ。次から次に仕事は舞い込んでいる。様々な役柄を演じられる役者として、評価もされている。毎日忙しく、日々は充実している――はずなのに。
そっとキーホルダーを拾い上げて、手の中の鍵を見る。丸い輪の金具だけがぶらぶらと揺れていて、ひどく不格好だ。急激な気分の落ち込みを感じて、まずは自分を落ち着かせようとゆっくりと息を吐き出し、とりあえず家に入ろう、と顔を上げて。
「……え」
自分がどこにいるのか分からない。いや、先程確かに家の鍵は開けた。だから、家に帰ってきたことだけは間違いないはずだ。であれば、目の前にあるのは見慣れた玄関の扉のはずで。
それなのにどうして、石畳の路地などという場所にいるのだろう。
「おや。迷い込まれたのですね」
「……う、わ」
いつの間に現れたのか。役者に声を掛けたのは、息を吞むほど美しい女性だった。一見して女性だと思いはしたが、全体的な雰囲気は中性的で、何となく性別を感じさせないような存在に思える。それどころか、動いているのに、今確かに声を発したのに、どうにも生きているようには感じない。精巧に創られた人形が動いているかのような、そんな違和感を感じる。
「どうかされましたか?」
「い、いや……ちょっとびっくりして……あの、ここって」
「ここは0番街、私はこの街で修繕屋の店主をしております、アイリスと申します」
「あいりす……、さん。あ、えと、俺は」
「存じ上げております」
役者の言葉を、店主は首を振って遮った。そうか知られているのか、と思うと、何とも言い難い感情が込み上げてくる。嬉しいような、恥ずかしいような――それでいて、苦しいような。
相手は自分を知っている。であれば、下手な行動を取るわけにはいかない。この御時世だ、何が役者として命取りになるか分かったものではない。
ひとつ、深呼吸。笑顔を作ってから、店主に視線を向けて。
「……俺、この0番街というところ、あまり詳しくなくて。申し訳ないんですが、駅までの道を教えていただけるとありがたいんですが」
「駅ですか。この街にはございません」
「……え? じゃあ、最寄り駅は」
或いはタクシーを呼んだ方が早いだろうか。それともマネージャーに連絡を取るべきだろうか。周囲はしんとしていて人の気配がないが、万一この店主との2ショットを撮られて、週刊誌やSNSに公開されてしまうことは避けておきたい。
スマートフォン、と鞄に手を伸ばそうとしたとき、す、と店主の指先が役者の手元を指差した。
「その子、大丈夫ですか?」
「え」
「壊れてしまったのでしょう?」
言われて、手元を見る。知らず握りしめていた掌の中には、真っ二つに割れたキーホルダー。
――そうだ。キーホルダーが壊れて、拾うために屈み込んだ。そうして顔を上げたら、もう景色は変わっていたのだ。
「よろしければ修繕しますよ」
「……あ、いや、大丈夫です。元々捨てるつもりでいたやつなんで……」
ずるずると未練たらしく持っていただけだ。そもそも、こんなふうに割れてしまったキーホルダーが元に戻るとは思えない。壊れたのだから、捨てるいい機会だ。
役者の返答に、店主は不思議そうに首を傾げる。まるで理解できないとでも言いたげな色が、その表情に見え隠れしていた。
「けれどそれは、貴方にとってとても大切なものでしょう」
「え」
「ここに来られたのも縁です。御遠慮なく」
ひょい。店主の美しい指先が、役者の掌の上から割れたキーホルダーを奪い取っていく。無意識に取り返そうとして、役者は手を握りしめた。
捨てると言った口で、自分は何をしているのだろう。
役者の様子を見た店主が、穏やかに笑う。手元のキーホルダーを確認してから、その足が方向を変えた。
「店へどうぞ。――心配しなくとも、貴方が怯えているようなことにはなりませんよ」
何故か逆らえずについてきてしまった。
言われるがままに店の中に入って、目前の光景の異様さに息を呑む。壁一面に飾られた色とりどりの光を放つ無数の小瓶。人間離れした容姿の店主といい、光る小瓶といい、そもそもこの場所に来た経緯すら、何もかも分からないことだらけだ。混乱してばかりの役者を気に留めることなく、店主に勧められた椅子におずおずと腰掛ける。
大きな机の上に割れたキーホルダーと空の小瓶を置いた店主は、そのまま机を挟んで役者の対面に腰掛ける。その指先をキーホルダーの表面に滑らせて、その瞳が真っ直ぐに役者を射抜いた。
星が明滅している夜空のような瞳に、吸い込まれそうな錯覚。
「修繕の対価として、貴方とこのキーホルダーの思い出話をお伺いできると嬉しいのですけれど」
「……や、あの。別に、本当に……もう、捨てるんで……」
「本当に捨てて良いものなのですか?」
それは確認ではなく、確信だ。割れたままキーホルダーを返したところで、役者はこのキーホルダーを捨てない。この店主は、そう確信している。
思い出。
その単語に、胸の奥がひどくざわめく。奥深くに仕舞い込んで忘れるよう努めたものを、引き摺り出されているかのような奇妙な感覚がする。
「……直してほしい、なんて、頼んでないですし。そもそも俺とそのキーホルダーの思い出なんて、あなたに関係ないでしょう」
「そうですね。私に直してくれと訴えているのは、この子ですし」
「……は?」
何を言っているのか分からない。聞き返したが、それに対して店主は反応しなかった。役者の方を見ることもなく、ポケットから眼鏡を取り出して掛ける。
そこではっと我に返る――これはもしかして、怪しい宗教か何かなのではないだろうか。であれば棚にある無数の光る小瓶も、店主の眼鏡も、そして店主の人間味のなさにも説明がつくような気がする。
キーホルダーは店主の手元にある。捨てるつもりでいるのだから、取り返すのは諦めて、このまま逃げてしまおう。そう自分に言い聞かせ、立ち上がろうとしたその瞬間だった。
「……貴方は長い間、このキーホルダーを大切にされていたのですね」
「え? ……まあ、そう、ですね……?」
「ひとまず、修繕を進めていきましょう」
穏やかな笑みを浮かべている店主の表情に毒気を抜かれて、役者は動きを止めてしまった。机の上に置かれたキーホルダーに視線が向く。それに触れた店主の指から現れる、白銀の光の糸。
「……う、わ!?」
「すぐに終わります」
おおよそ現実味のない光景。もはや何を信じればいいのか、分からない。
店に入る前に店主は言った。役者が怯えているような事態にはならない、と。その言葉を鵜呑みにしていいのかどうかは分からないが――しかし。
頭で考えても理解できない光景が、眼前に広がっているからだろうか。無意識に、口が開いていた。
「……昔の、話なんですけど」
「はい」
「……お揃い、ってもらったんです。まだ役者として売れてないときに……これから頑張っていけるように、って……」
――アクセサリーにしようかとも思ったんだけど。
そう言って笑った顔を思い出す。どこにでもつけられるから、人の目に晒されにくいものだから。他の人に真似されるの、少し嫌だと思ったから。
きっと照れ隠しもあったのだろう。饒舌にそんなことを話す相手の様子に笑いながら、鍵にキーホルダーを付けた。家を出るとき、家に帰ってきたとき、必ず触れるものだから。
外で自分ではない誰かを演じ続ける。そんな仕事を選んだからこそ。
「……何だろ。切替スイッチ、みたいになってたのかな。家の鍵閉めて、そのキーホルダー触ったら役者の俺。家の鍵開けて、そのキーホルダー触ったらプライベートの俺、みたいに」
「なるほど」
「……捨てなきゃ、とは思ったんです。何か、未練がましいな、って思っちゃって……」
役者として成功した。成功している、恐らくは。
その代償のように、失われてしまった日常。自ら手放してしまった大切なもの。手放したのに、それでも手放すことができないもの。
「……そのキーホルダー、真っ二つになったの見て、あ、戻れないんだ……って、現実突きつけられた、気がして」
余計なことを考えてしまったら、一歩も動けなくなる。あのとき感じた感情は、確かに恐怖の色をしていた。
店主の指が、キーホルダーから離れていく。いつの間にか、机の上には元通りに戻ったキーホルダーが乗っていた。どういう手品なのか、皆目見当もつかない。そして何より、そのことにほっとした自分に笑ってしまう。
胸の奥に、まだ未練は色濃く残っている。
「……手放すって決めたとき、何も言われなかったんですよ。聞き分けのいいフリしたのかな……そんなことも聞けなかったな……」
あのときもっときちんと話していれば、もっと違ったものがあったのだろうか。
真っ二つに割れたキーホルダーは、元に戻っている。自分たちにもそんなことは有り得るだろうか。そんな、都合の良いことを考えてしまう。
「……間に合うかな」
「それはきっと、貴方次第です」
そっと、店主にキーホルダーを差し出される。それを受け取って、握りしめる。
元通りに戻れるなんて、そんな都合の良い話は存在しない。それでも、ずっと胸の奥に残り続けているものを昇華することは、できるかもしれない。
そんな都合のいい夢想を考えてしまうのは、きっと、ここにある何もかもが現実離れしているからだ。
「……ありがとうございます、直してくれて」
「どういたしまして」
机の上の小瓶の中で、パールホワイトの光が柔らかく輝いていた。
ふ、と意識が浮上した。
どうやら酒を飲みながら眠ってしまっていたらしい。見慣れたリビングのテーブルの上には数本、酒の缶が転がっている。
「……あれ」
何かを握りしめていることに気付いて、役者は己の手に視線を向けた。その手の中にあったのは、自宅の鍵。そして、この数年ずっと鍵についたままのキーホルダー。まじまじと見ていると、キーホルダーの表面にうっすらと細い線が入っていることに気付く。慌ててしっかりと確認したが、割れたり欠けたりはしていない。どこかで傷をつけてしまっていたのだろう。何となく安堵感を覚えて、役者はほっと息を吐いた。
――何だかとても、不思議な夢を見ていたような気がする。
テーブルの上に鍵とキーホルダーを置いて、伸びをひとつ。どれくらい眠ってしまっていたのだろうか。酔いは醒めているようだが、体は怠い。
「……やっぱ、連絡してみるかな……」
不意にそんな言葉が口からこぼれた。アルコールのせいだろうか、どうにも何かが緩んでいるような気がする。しかしだからこそ、今なら踏み出せる気がした。
手に取ったスマートフォン、久しぶりに開いた連絡先。トークの履歴は既にない。もしかしたらもうブロックされているかもしれないが、そのときはそのときだ。
『元気?』
その文字だけを、打ち込んで。
役者はそっと、送信ボタンを押した。