03 指輪

 迷い人がいないときの0番街は、静寂に満ちている。街自体が眠りについている静けさは、この街にとっては平穏の象徴だ。
 修繕屋の店内で一人、店主は黙々と店の掃除を進めていた。机の上を拭く布が擦れる僅かな音さえ、街の静寂の中では不釣り合いな程響き渡っているような気がしてしまう。
 なるべく不純物を含まないようにするために、店内は美しく保っておく必要がある。それはこの場所を保つための、店主なりの調律のようなものでもあった。棚にある小瓶ひとつひとつを丁寧に拭き上げ、中身の様子を確認してから元の位置へと戻していく。きらりと輝く砂や小石は、これまでに店主が修繕の対価として受け取ってきたものだ。中身を見れば、この対価を置いていったものたちを、そこから溢れた思い出を、声を、鮮明に思い出すことができる。
 一通り掃除を終えると、店主は己のポケットから眼鏡を取り出した。眼鏡全体も綺麗に拭き上げて、掛ける。そうして己の指先に視線を落とすと、ふわりと現れる白銀の糸。

「……うん、異常はありませんね」

 糸を操る店主の指先に、淀みはない。それは、修繕屋として必要不可欠な力。これが滞りなく使えることは、この場所で修繕屋を続けていくための絶対条件だ。どこか綻んでしまっていないかを入念に確認し、問題がないと判断できれば、そこで店主のルーティンは終了だ。
 眼鏡を外して、店の扉へと視線を向ける。今日の0番街は落ち着いているようなので、恐らく迷い人が現れることはないだろう。平和であるなら、それに越したことはない。
 店主は部屋の片隅にあるキッチンスペースへと目を向ける。たまにはお茶にでもしてみよう、と席を立った。取り出したティーセット、ポットの陶器が触れ合う澄んだ音が店内に優しく響く。茶葉が湯の中で和らぎ、穏やかな香りを放つ。

「……、おや」

 からん。
 響いた音に動きが止まる。扉に向き直ると同時、キィ、と音を立てて店の扉が開いた。

「よかった。変わりなくやっていたんだね、修繕屋」
「お久しぶりです。また壊れてしまったんですね」
「そうなんだよ。まあ、うちの御主人は無事だからいいんだけれどね」

 店主の言葉にへらりと笑う、人の形をしたモノ。だがその姿は、人とは決定的に違う。肌も、髪も、瞳も、纏う服も、全てが鈍い銀色で構成されたそれは、迷い人ではない。れっきとした、意思を持ってこの修繕屋を訪れた客人。
 ここは0番街。――様々な世界の境目、境界に位置する場所。
 現れた客人は、以前にもここで修繕したことのある『魔術世界』の存在である、身代わりの指輪の精霊だった。


「いやあ、やはり修繕屋の腕は信用できるなあ! 素敵だねえ……。あ、そうだ、対価をちゃんと支払わないといけないね、えっとまずは――」

 ちゃっかりと店主が用意したお茶を飲みながら、次から次に旅の思い出を語る精霊の話に相槌を打ちながら、店主は机の上に置かれている、割れた指輪の修繕を進めていく。
 レンズ越しに覗く指輪の割れた断片は、店主の紡ぐ白銀の糸を無抵抗で受け入れてはくれない。ただの『人間世界』の持ち物ではない、『魔術世界』の品物の修繕には非常に気を遣う。それ自体に魔力があるものを普通に修繕しようとすると、店主が注ぐ魔力は反発されてしまう。何の力もなければ店主の操る白銀の糸は何の抵抗もなく馴染んでいくが、精霊が宿るほどの力を持つものが相手では、微細な調整箇所が多い。かちかち、耳に届く歯車が回る音も、レンズの中で踊る星々の数も、いつもよりも多い。ばちん、と小さな青白い火花が散った瞬間、困ったように精霊が肩を竦めた。

「おっと修繕屋、それはちょっと擽ったい」
「失礼を。やはり二度目もなると、良くない壊れ方をしていますね。御主人を守れたことは幸いですが」
「本当にそれだけ強敵だったんだよ、今回は。とはいえ、次はもうここに来ることは叶わないかなあ」
「それでも戻られるのでしょう?」
「当然だろう? 二度も私を使う危なっかしい御主人だ、放っておけない」

 にこにこと話す精霊はとても誇らしげだが、しかしその声音には確かに心配の色が滲んでいる。
 本当は一刻も早く、主人の元に戻りたいのだろう。こうしている間にも危険な目に遭うかもしれない、と考えると気が気ではないはずだ。
 しかし、だからこそ丁寧に修繕をしておかなければならない。精霊自身が自覚しているように、今の状態では万全に修繕しても、次は0番街を訪れるだけの力は残らないだろう。そんな状態であっても、そのとき指輪の持ち主を危険に晒すことなどあってはならない。十全にその効果を発揮できる、最高のコンディションであること。それが、この指輪がここに来た理由だ。

「……でもね、修繕屋」
「何でしょう」
「次はないかもしれない」

 その声音にあったのは、酷く複雑な感情。
 嬉しそうでもあり、寂しそうでもあるその色に、少しだけ手を止めた店主は精霊に視線を向けた。ふふ、と笑うその表情は、やはり何とも言えない感情を宿している。以前の精霊には見受けられなかった感情だな、と感じながら、店主は手元に視線を戻した。修繕作業はまだ終わっていない。

「……それは、使われることが、ということでしょうか?」
「うん。御主人も引退を考え始めた矢先だったから」
「確か、そろそろ御高齢だということでしたね」
「そう。無理して奥地にまで行くようなことをするから、私を使わなければいけないようなことになるんだよ」

 困っちゃうよねえ。
 そう呟いて、精霊は口を閉ざした。あれほど饒舌に喋っていたというのに、店内には一気に静寂が押し寄せる。かた、かちち。眼鏡の歯車が回る音。暫しの作業の後、かちゃん、と嵌った感覚を覚えて、店主は指を止めた。

「……本当に戻られますか?」
「戻るよ」
「それならば、私に止める理由はありませんね」

 しゅる。
 光の糸が解け、その中から修繕された指輪が姿を現す。細かな意匠がびっしりと施された、美しい銀の指輪。その姿を見た精霊が、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「これこれ! この美しさこそ私だよ」
「気に入っていただけたようで何よりです」
「本当に君の修繕の腕は信用に値する。あ、対価は足りたかな」
「充分すぎるほどに。たくさんの思い出を語っていただきましたから」

 机の隅に置かれた小瓶に目を向ける。2つの小瓶に、エメラルドグリーンの光を放つ美しい砂が貯まっていた。
 ほう、と感嘆の声を上げ、精霊が片方の小瓶を手に取る。傾けると小瓶の中でさらさらと砂が揺れ、エメラルドグリーンの光が次々に小さく弾ける。

「相変わらず美しい星涙だね、見事だ。前に修繕してもらったときと色が違う気がするけれど」
「覚えておられましたか。それだけあなたの在り様が以前と変わっているのでしょうね」
「あはは。前は私も若かったから」
「前のあなたの在り様も素晴らしかったですが、今回のあなたの在り様はとても素敵なものだと、私は感じました」

 時が経てば、万物は変わる。何ひとつ変わらない永久不変なものなど、ありはしない。
 立ち上がると、店主は暫し棚の中を吟味する。時間はかなり経過しているが、以前この精霊からもらった対価は残っている。棚の奥に置かれていたその小瓶を、店主は迷うことなく、しかし壊れ物を扱うようにそっと指先で引き寄せた。
 小瓶の底にわずかに残る、トパーズイエローの輝き。それを見た精霊が、懐かしそうに目を細める。

「ああ、それだ! よく残っていたね」
「ぎりぎりですが……巡り合わせでしょうね。よかったです、なくなる前にお見せできて」
「その頃の私は、修繕屋の目にどう映っていたのかな」

 かつての精霊の姿を思い出す。
 ただただ、必死だった。自分が壊れてしまった、また主人に何かあったら守れない。早く戻らないと、早く帰らないと。本当に修繕できるのか、元通りに戻れるのか、――ちゃんと帰れるのか。
 精霊の言葉は必死で、そして再び使われることが前提だった。今の精霊は違う。恐らくはもう二度と、主人の元で使われないことを願いながら、それでも戻ることを決めている。

「今も昔も、あなたは御主人をとても大切にされている、と感じます。……そうですね、きっとこの頃に比べると御主人同様、雰囲気が柔らかくなられたのでは? ……そしてこの当時よりもはっきりと強く、あなたは御主人に生きていてほしいと願っている。だから、帰りたいのですね」
「……うーん、さすが。隠せないね」
「あなたがたはいつも、とても雄弁ですから」

 持ち主への愛が、0番街への扉を開く。もう少し傍にいたいという願いが、輝きとなって零れ落ちる。
 それらを大切に拾い集めるのが己の役割だと、店主は知っている。だから、この場所に存在しているのだから。
 掛けていた眼鏡を外し、ポケットへと仕舞い込む。指先に触れた天球儀が、くるんと回った。

「本当にありがとう、修繕屋。私はこれで戻るとするよ」
「はい、お気をつけて」
「ところで修繕屋――これは余計なお世話だと思うのだけれど。君はいつまで、この店を続けていけそうだい?」

 精霊の言葉に、店主はぱちりと瞬く。刹那、瞳の奥で銀の光が流れて落ちた。それは彼がこの場所で時を刻み続けてきた証左であり、何者にも侵し得ない、ただどこまでも美しい不変の輝き。すっと視線を棚に向ける。それぞれに輝く小瓶。

「0番街が存在するかぎり、私はここで修繕屋を営んでいますよ」
「……ああ、そうか。そうだね」

 それでこそ修繕屋だ。
 一言、その言葉を残して――精霊と共に、指輪は姿を消した。それを見送った店主は机の上に残った3つの小瓶を手に取り、棚の上へと並べる。かつての鋭いトパーズイエローと、今回の深く穏やかなエメラルドグリーン。2つの小瓶から放たれる光は静かに混じり合い、精霊のこれからに祈りを捧げているかのように見えた。


「――師匠、本当にいいんですか? この指輪をいただいて……」
「むしろ、持っていってほしいんだ。二度も私を救ってくれた守り神だからね。きっとお前のことも守ってくれる。私はここで静かに余生を送るさ。……どうか幸多き旅路を。見守ってやってくれ、頼んだよ」

 ――仕方ないなあ!

前のエピソード
次のエピソード