01 鞄

 今日は厄日なのだろうか。
 久しぶりにやってしまった大きなミス。上司に怒られ、得意先にも怒られ、後処理で残業になり、帰路に就いたのは終電も近い時間帯になってしまった。その帰り道、電車を降りて自宅までの道を歩いている最中、急に持っていた鞄の持ち手の金具が壊れてしまった。仕方がないので鞄を抱えると、今度は鞄の底が裂けているのが見えた。慌てて中身を確認したが、何とか落とし物はないようで、それだけが救いだ。しかし、明日から仕事に行くための鞄はない。勿論買いに行くような時間ではないし、明日急に休暇が取れるような状況でもない。どうしようか、と考えてしまうと気が滅入るばかりだ。帰って布団に入って眠って、何もかも忘れてしまいたい。そうすれば明朝の自分が困るのは分かっているものの、今からできることなど何も思いつかない。疲れ切った頭では、代替案も出てこない。
 はあ。大きな溜め息が、口から零れる。どちらにしろ、家に帰ってから考えた方がいい。そう思った瞬間、くらりと眩暈に襲われて男は立ち止まる。疲れているせいだろうか。ぱち、ぱちとゆっくりと瞬いて、早く帰った方がいいと顔を上げた。

「は……?」

 自分の目を疑った。そして頭も。
 眼前に広がっていたのは、見知った自宅までの帰路ではなかった。薄らとした白い霧に覆われた、石畳の路地。道を照らしているのは白色の無機質なLED電灯ではなく、オレンジ色の灯が揺れるアンティーク調の街灯。数字の0を重ね合わせたような柱。古めかしい鉄柵に囲われた道の左右は霧に覆われて見えず、後ろを振り返ってもただ石畳の道が続いているだけだ。その先で目に入ったのは、普段都会の人工的な光の海の中では見ることのない、満天の星空。だが、その空の色も夜空の闇と夕暮れの茜色が乱れるように入り混じっていて、おおよそ現実的ではない。グラデーションならまだ分かるのに、と思いかけて、しかしやはり今の時間帯では有り得ないことに気付いてしまう。終電に近い時間帯の電車に乗ったのだ、空が茜色である訳がない。

「どうなってんだこれ……」

 果たして、疲労で夢でも見ているのだろうか。そうであれば納得もいく。電車は既に降りたつもりでいたが、実はあのまま座席で眠ってしまったのだろうか。そうであれば乗り過ごして終点まで行ってしまったら大事だ、起きなければ。
 頬を抓る。――痛い。

「迷子ですか」
「え」

 背後から不意に降ってきたその声は、まるで調律されたばかりの弦楽器が奏でる音色のように、静かな路地に響き渡っていた。声に釣られて、男は振り返る。
 そこに立っていたのは、青年――だろうか。男とも女ともつかない、美しい出で立ちの存在。しかし、いつからそこにいたのだろう。先程周囲を確認したときには、人の姿などなかったはずだ。
 ――何より、この青年は美しい。
 本当に人間だろうか、と思う程の衝撃に襲われる。見惚れてしまう、目が離せなくなる。その瞳は深い青のような、それでいて深い紫のような色をしており、表面にはきらきらと星座のように星が瞬いている。肌は滑らかな磁器を思わせる美しさで、プラチナシルバーのゆるいウェーブがかったミディアムボブの髪は、まるで光を内側に湛えて発光しているかのようだ。
 あまりにも美しすぎる。完璧、という評しか思い浮かばない。とてもではないが、人間だとは思えなかった。まるで精巧に創られた人形が、命を得て動いているかのような。
 そして、青年の背後にはいつの間にか店があった。石畳の道が続いているだけだったはずだというのに、だ。見た目は古めかしい木造だが、そこかしこに不可思議な意匠が凝らされ、宝石か何かのように煌々と輝いている。看板らしきものに書かれている文字は明らかに日本語ではない上、男が見知った言語のどれにも当てはまらない。そのはずなのだが、何故かその単語はすっと男の意識に飛び込んできた。

「……しゅう、ぜん、や……?」
「はい。ここは0番街修繕屋――私は店主を務めております、エイオンと申します」
「えいおん、」

 響きからして、日本人ではなさそうだ。その割に、青年――店主の口から紡がれるのは綺麗な日本語だ。そのビジュアルに似つかわしくないような気もしてしまう。
 やはりこれは夢なのだ。
 そうでなければ説明がつかない。この美しすぎる店主も、突然現れた謎の店も。しかし先程抓った頬はまだじんじんと痛み、熱を持っている。夢ではないと、そう示してくる。

「……あの?」

 呆けている男が心配になったのだろう。店主は眉尻を下げて、困惑したように首を傾げる。その所作までもが美しいと感じて、男はぶんぶんと首を振った。
 もう何もかも、意味が分からない。
 頬は痛むが、それでもきっとこれは夢の中だ。その筈だ。だから、この訳の分からない事象はもう、気にせず受け入れてしまうべきだ。

「あ、あの、修繕って何の」
「モノであれば、何でも修繕いたしますよ。……貴方、お困りですよね」

 それ。と店主の人差し指がすらりと伸ばされる。その指の先は、男が抱いていた壊れた鞄だ。
 鞄は再起不能なまでに壊れている。新しいものを買いに行く時間はない。その現実逃避の結果として、こんな夢を見ているのだろうか。
 自然と、唇は開いた。

「……これ、直してもらえるんですか?」
「勿論。但しお代は頂戴しますよ」
「俺に払える金額ならちゃんとお支払いはするんで、」
「ああ、いえ。金銭の類は不要です」

 ふわり、と店主の表情が柔らかく変化する。穏やかで、男を安心させるかのような笑み。その瞳の中で、銀の光が尾を引いて零れていったのが見えた気がした。

「その鞄に纏わる思い出を、お話しいただけますか。――私にとっては、それが修繕の対価となりますので」


 通された店内は、こじんまりとした部屋だった。
 部屋の中央には作業台なのだろう、木製の大きな机が置かれている。机の上は綺麗に片付けられており、埃ひとつないように見えた。
 目を引いたのは、机の向こう側。壁一面が棚になっており、そこには所狭しと様々な色をした石のような、砂のようなものが入った小瓶が置かれている。程度の差こそあれど、どれもが光を放っているように見えた。

「どうぞ、そちらにお掛けください。鞄の中身は――そうですね、こちらへどうぞ」
「あ、はい……ありがとうございます……」

 勧められるがまま、男は机の前に置かれた椅子に腰掛ける。続けて出されたサイドテーブルのような台に、ひとつずつ鞄の中身を出して置いていく。
 財布。スマートフォン。キーケース。モバイルバッテリー。ポケットティッシュ。ハンカチを出したところで、目に入ったのはコンビニでの買い物のレシートがくしゃくしゃと大量に。そして弁当を買ったときにもらったのであろう、出し忘れの割り箸やフォーク。恥ずかしくなってきて店主の様子を窺ってみたものの、店主は男の方を全く見てはおらず、棚の奥を吟味するように見つめている。今のうちに、と慌てて残りの物も取り出して、出したものを隠すように上からハンカチを広げて被せておく。

「……ええと、出しました」
「あ、はい。それでは、鞄を見せていただけますか」

 くるり。振り返った店主の手には、小瓶がひとつ。それはことん、と机の上に置かれる。棚に置かれているものとは違い、その中には何も入っていないようだった。どうしてそんなものを今取り出したのだろうかと疑問に思いながらも、おずおずと机の上に壊れた鞄を置く。
 ――こんな、何もかもが夢としか思えない状況で、鞄をこの店主に預けてしまっていいのだろうか。
 不意にそんな考えが頭を過る。鞄を置いた手が、鞄から離せない。

「……ああ。私もしかして、疑われている感じでしょうか」
「……いや、あの、ええと……」
「大丈夫ですよ。ひとまず、そのままで構いません」

 苦笑いをしているかのような店主の声。こういった状況には慣れているのかもしれない。しかし店主の表情を見るのは怖くて、男は目を伏せた。動けない。
 これはどうせ夢だ。こんなこと、こんな場所、現実には有り得ない。だから、気にせずに店主に任せてしまえばいいのだ。
 それでも、この鞄は。

「大切にされている鞄なのですね」
「この、鞄は……親友が、就職祝いにくれたもので……」
「成程。知らない人に気軽に触られたくないというお気持ちがありますか」
「……いや、すいません、そんなつもりじゃ」
「意地悪で言っているのではなく、素直な感想ですよ。お気になさらず。こんなになるまで貴方と一緒にいられて、この子はとても誇らしいそうですし」
「え」

 思いがけない言葉に、男は思わず顔を上げていた。机の向こう側に腰掛けている店主は、その星空のような美しい瞳でじっと鞄を注視していた。いつの間にか、眼鏡を掛けている。
 その造作の異様さに、男は息を呑んだ。眼鏡は、一目で特別で、不思議なものだと分かる外観をしている。レンズは店主の瞳と同様、星空のようなものが映し出されている。透明な宇宙のようなそのレンズは、多数の極小の歯車が付いた弦と繋がっていた。そしてその歯車の弦の中央部分には、左右一対の小さな天球儀。それらは音もなく回って、確かに動いている。
 男が顔を上げたことに気付いたのだろう。鞄から男へと視線を移した店主が、静かに口を開いた。

「お仕事を始められてから、どんな日々も、貴方はこの子と共にお仕事をされてきたんでしょう?」
「……はい。最近はすっかり、雑に扱っちゃってますけど……でも、大事な鞄で……」
「何年お使いになられているんですか?」
「……3年になります」

 あれから、3年が経ってしまった。
 ぎゅう、と胸が締め付けられるような痛みを覚えて、男は再び目を伏せた。死ぬまで大切に使う、と言ったあの日の男に、嬉しそうに笑った親友の表情を思い出す。
 忘れていた訳ではないのに。あれだけ大切に使っていたはずなのに。今やゴミが入ったままになっていても気付かないほど、鞄のチェックなどしていなかったのだと思い知らされる。使い始めた頃は毎日大切に、丁寧に扱っていたはずなのに。いつの間にか雑に扱って、その辺に放り投げてしまうような日々を続けていた。
 ――触らないでほしい、などと言える資格は、自分にはない。息を吐いて、男はゆっくりと鞄から手を離した。

「……すいません。直せそうでしょうか、これ」
「はい。……触らせていただいてよろしいでしょうか?」
「お願い、します」
「承りました。それでは修繕の間、貴方とこの子の思い出をお聞かせいただけると有難いのですが」

 店に入る前、それが修繕の対価だと、店主は確かに言っていた。どうしてそんなものが対価になるのか、よく分からない。言い淀む男をよそに、店主の手が鞄に触れた。
 その指先から現れたのは、無数の光の糸。それが鞄の壊れた箇所に、ふわふわと巻き付いていく。

「……なにこれまほう……?」
「そうですね」

 思わず口から洩れた単語を、店主はあっさりと肯定した。魔法。そんなものは空想の物語の中だけの存在だ。現実に存在している訳がない。
 だからやはり、これは夢なのだ。
 今度はすとんとその思考が受け入れられた。全ては夢。それならば、何を恥じることがあるだろう。夢であれば、誰も聞いてはいない。何を言っても、自分の中の話で終わる。

「……その鞄をくれた親友なんですけどね、高校の同級生で。俺より早く社会人になって……っていうのも、俺が浪人したせいなんですけど、恥ずかしながら」

 友人たちより1年、遅れることになった。浪人生活の間、ろくに友人たちに連絡は取れなかった。恥ずかしくて、そして羨ましくて。最初の頃は連絡をくれていた友人たちも、返事を返すことのない男に呆れたのか、それとも大学生活が忙しくなったのか、徐々に連絡は来なくなった。
 第一志望の大学を再受験し、その合格発表の日。

『どうだった?』

 短いメッセージが届いた。男の浪人生活が決定してから、それまでずっと何も連絡もしてこなかった親友からの連絡だった。連絡せずともずっと気にしてくれていたのだと伝わるには、十分すぎるメッセージ。震える指で受かった、と返せば、すぐに電話がかかってきて、電話口で二人で泣いて喜んだ。

「他の友人たちとはその後の付き合いもないんですけど、そいつだけは本当……生涯親友って呼べるのはこいつだけだ、ってそのとき思ったんです」
「良い方ですね」
「本当に。この鞄も……、俺、就職活動も結構大変で。ようやっと何とか内定が決まったときに、お祝いだーって飲みに連れてってくれて。そのときに、もらったんです」

 少し良いブランドのビジネスバッグ。もし人前に出ることになったとしても恥ずかしくない、と思えるもの。
 それなりの値のものであることは、すぐに分かった。慌ててこんな高価なものは貰えないと断った。だが、親友は男のために買ったのだと笑うだけで、受け取り拒否は認めてくれなかった。
 だから死ぬまで大切に使う、と言ったのだ。そこまで良いものじゃないから無理だろうと言い返しながら、親友は本当に嬉しそうに笑ってくれた。
 楽しく飲んで、じゃあまたな、と笑って別れた。その日が、最後だった。

「……亡くなったんです、その親友。事故だったんですけど」
「事故、ですか」
「……どうなんだろう。分かりません、もしかしたら自殺だったんじゃないかって思うこともあって……でも、俺にそれを確認できる方法なんてないから……」

 訃報が届いたのは、それから1週間ほど経った後のことだった。仕事からの帰り道、通勤に使用しているバイクでの単独スリップ事故。打ち所が悪く、必死の救命も虚しく助からなかったのだと聞いた。葬儀は家族のみで済ませたとのことで、最期に会うことは叶わなかった。聞いてすぐに仏前に手を合わせに行ったが、遺影を見ても、白い布に包まれた骨壺を見ても、泣いている親友の両親を見ても、現実とは思えなかった。
 本当はまだどこかで生きているのではないかと疑ってしまいたくなるときもある。
 そして――本当は死ぬつもりだったから、最後にこんなプレゼントを渡してきたのではないかという考えが、首をもたげてくるときもある。
 真相は分からない。男にできたことは、親友がくれた鞄を手に、仕事を頑張ることだけだったから。
 親友がただ心から男を応援してくれただけだと、そう信じることができなくなってしまったまま、3年。
 沈黙が落ちる。店主の指先、光の糸は鞄の上で踊り続けていた。美しく、柔らかく、丁寧に。光に覆われてしまった修繕部位は、男の目ではもう何も見えない。

「私には、貴方のお気持ちをきちんと理解することなど到底できませんが……、けれどひとつ、確かなことがあります」
「……何、ですか」
「この鞄が、貴方のことをとても大切に想っている、ということですよ」
「……は?」
「だから貴方は、ここに辿り着いたのですね」

 そう言葉をつづけた店主の手が、鞄から離れていく。ゆっくりと光が消えていき、現れたのは元通りに戻った鞄の姿。3年間使いこんだ傷はそのままに、金具も、裂けた鞄の底も、どちらも何事もなかったかのように元に戻っている。

「その親友の死の後、貴方はこの子を抱きしめて泣いたのでしょう」
「え」
「だからこの子は、そのときに、これからどんなことがあっても貴方のために頑張ろうと決めたそうです。私にそう、誇らしげに教えてくれました」
「……なん、で知って……」
「今言ったでしょう。この子が教えてくれたんです」

 修繕された鞄を見ながら、店主は淡々と話す。鞄が喋るわけがないと反論しかけて、しかしその言葉は呑み込んだ。そもそも今、自分は夢としか思えない状況にいて、魔法を目の当たりにしたのだ。鞄が喋るくらい、有り得てもおかしくはない。だとしたら、今話さなかったことを店主が知っているのは、不思議ではない。
 仏前に手を合わせに行った、その日。
 現実味はなかった。遺影を見ても、白い布に包まれた骨壺を見ても、泣いている親友の両親を見ても。それでも家に帰ってきて、しんとした部屋で一人立ち尽くした。そして部屋に置いてあった鞄が目に入って、その瞬間、何もかもが決壊した。
 どうして。どうして。どうして。
 本当に事故だっただろうか。本当は何か思い悩んでいたのではないだろうか。あの優しい親友だ、何かを抱え込んで、誰にも話せないほど思い詰めていたのではないだろうか。そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。それでも、この鞄の存在はその嫌な思考を手助けしてしまう。
 何もできなかった。何も返せなかった。自分はこんなにも、親友に助けられたのに。
 ぼろ、と涙が落ちていく。それは男にとって、3年ぶりに去来した感情だった。

「……この子を、どうかこれからも大切に。それから、この子から貴方への伝言をお伝えさせてください。信じるかどうかは、貴方次第ですが」

 静かに言葉を紡ぎながら、店主の指が机の上に置かれた小瓶に触れる。空だったはずのその小瓶は、透き通った水色から白銀へのグラデーションを纏った小石が詰まっていた。その石がゆっくりと、そして静かに、穏やかな光を纏っていく。

「――これから一緒にアイツを支えてやろうな、と、その親友の方に言われたそうですよ」


 無機質なアラームの音で目が覚める。傍らに置いていたスマートフォンを手探りで探し当て、アラームを切って、瞬く。
 ――何か、不思議な夢を見ていたような気がする。
 内容を思い出そうとして、そんなことをしている場合ではないと飛び起きる。昨日の残務処理はまだまだ残っているのだ、早く家を出た方がいい。
 ぱたぱたと洗面所に向かい、顔を洗う。鏡に写った自分の顔色は冴えない。週末にはゆっくりできればいいのだが。
 買いだめしていたパンを朝食にし、身支度を整え、気合いを入れて鞄を手に取って。

「……あれ?」

 妙な違和感。何かを忘れてしまったような。
 鞄に視線を落とす。3年間毎日を共にしている相棒は、くたびれてはいるもののまだまだ現役だ。

 頑張れよ。

 懐かしい声が聞こえた気がして、瞬く。幻聴が聞こえるほど疲れているのだろうか。しかしその声が聞こえた瞬間、ふっと心が軽くなった気がして。

「……っと、やべ!」

 鞄を引っ掴んで、家を出る。少し冷えた風が吹き抜けた瞬間、鞄から小さな石がころりと落ちて、消えていった。