02 オルゴール
どうしよう。
少女の手から滑り落ちた木箱はがしゃん、と大きな音を立てて床に落ちた。ばらばらに砕けてしまったそれは、もう元の形が分からないほどにばらばらになってしまっている。
――壊してしまった。
――怒られる。
じわ、と目頭が熱くなる。喉が震えて、気付けばわあわあと大きな声を上げて泣いていた。いい子でお留守番していてね、と言われたのに。毎夜聴かせてくれるオルゴール、触らせてほしいとねだるともう少し大きくなったらね、と必ず言われてしまうから。母は毎日、わざわざ少女の手が届かない高さの棚の奥に仕舞い込んでいた。見ていたから、それを知っていたから、だから今ならと考えて、椅子に上って取ってみようと思ったのがそもそもの間違いだった。
壊れてしまった。
大好きなオルゴール、その音色が木端微塵に砕けてしまった。
触ってはいけないと言われていたのに、触ろうとしたから。ああ、絶対に怒られてしまう。
感情がごちゃ混ぜになってしまって、よく分からない。ただ大声で泣き喚くことしかできない。そんなことをしても、壊れてしまったオルゴールが元通りになるなんてことはないことは知っているのに。
「危ないですよ」
「わ……っ!?」
ひょい、と椅子の上から体が持ち上げられて、驚きで涙が止まった。家には誰もいないはずで、そしてそれは聞いたことのない声だった。恐る恐る見上げて、思わずわあ……と感嘆の声が漏れた。
人形と見紛うほどの、綺麗な存在。美しいプラチナシルバーの髪に、まるで夜空のような美しい瞳。困ったような顔をしながら、ゆっくりと少女の身体を椅子の上から地へと下ろす。
「……え、あれ……、あれ……?」
先程まで、確かに家にいたはずなのに。目に入ったのは、全く違う景色だった。石畳でできた路地、オレンジ色の灯りが灯る街灯、きらきらと光を纏っている木造の建物。夕方と夜が混じり合ったような色をした空には、見たことがないほどの満天の星が輝いている。
少女の混乱を見て取ったのだろう。にこりと笑って、恭しいお辞儀と共に、言葉は紡がれる。
「0番街へようこそ、小さなお客様。私はアイリスと申します」
「あいりすさん?……お姉さん、お人形さんみたいね?」
「ふふ。私はここで、物を直すお店の店主をしています」
「てんしゅ?」
「物を直すお仕事をしている人、ですね。ここに来たということは、貴女には直したいものがあるのでしょう?」
穏やかな店主の声に、あ、と思い出して下を向く。砕けて壊れてしまったオルゴールは、地に散らばる形でそこにあった。じわり。見た瞬間にまた涙が込み上げてきて、少女は慌てて目元を拭う。
「あの、あのね……ママのオルゴール、こわしちゃったの。お姉さん、これ、直せる……?」
「成程。この子ですね」
少女の言葉に、店主が屈み込む。白く美しい指先が伸びて、砕けて散らばってしまったオルゴールの部品を拾い集めていく。はっとして、少女も屈み込んでそれらを拾っていく。一体このオルゴールは、どんな風に動いていたのだろうか。それすらもう、分からなくなってしまっていた。
最後にくすんだ金色の螺子を拾い上げた店主が、少女に手の中の部品を見せる。それがオルゴールだったなんて、言われても少女には理解できないほどに壊れてしまった姿。ひくりと喉が震えて、また涙が零れ落ちた。
「ああ、泣かないで。大丈夫ですよ」
「……直る……?」
「ええ、勿論。拾うのを手伝っていただいてありがとうございます。お母さんには内緒で直してあげますよ」
にこり。少女を安心させるように、店主が微笑む。その笑顔に何故かとても安心して、少女はこくりと頷いた。拾うことのできた部品を、そっと店主の手の上に重ねる。
こんなにばらばらになってしまったのに、本当に直るのだろうか。元の形も知らないはずのこの店主は、一体どうやって修理するつもりなのだろう。
「では、店に入りましょうか。――この子を直す代わりに、貴女とこの子の思い出話を聞かせていただければ嬉しいです」
店に入った瞬間にわあ、と声が出た。
色とりどりの、光る何かが入っている小瓶が無数に並べられた棚が目に入ったからだ。思わず駆け寄ろうとした女の子の身体を、ふわりと店主が抱きとめる。
「じっとしていてくださいね。触ってまた落としてしまったら、大変ですよ」
「……あ……」
もしあれらの小瓶を触って、落としてしまったら。オルゴールのように、砕け散ってしまったら。想像しただけで恐ろしくなってしまう。しゅんと大人しくなった女の子の身体をひょいと持ち上げて、店主は椅子に座らせてくれた。大きな机の上が、少女の視界に映る。
オルゴールの部品を机の上に置いてから、店主は棚からひとつ、空の小瓶を手に取った。それも同じように机の上に置いてから、少女の隣に椅子を置いて腰を下ろす。
「では修繕といきましょう」
「……なおる……?」
「大丈夫、直せます。だって、直してほしくてこの子はここに来たんですから」
ね、と店主は部品を撫でながら答える。少女としては、それを信じる他ない。
さて、と店主はポケットに手を入れた。そこから取り出されたのは、眼鏡。無数の歯車の中に天球儀があしらわれた弦に、透明な夜空のようなレンズ。あまりの美しさに、声も出さずに見惚れてしまう。何故だか触らせて、というのも憚られる、そんな雰囲気を放っている。
少女の視線に気付いているのかいないのか、眼鏡を掛けた店主は、再びオルゴールの部品へと手を伸ばした。その指先から次々に白銀の光の糸が溢れ出て、オルゴールの部品に巻き付いていく。
「わあ……っ!?」
何が起きているのか分からない。思わず店主の横顔と、光に包まれていくオルゴールの部品を見比べてしまう。眼鏡の歯車や天球儀が、かちかちと細かく小さな音を立てながら回っているのが見えた。もしかするとこの光の糸は、眼鏡と連動しているのかもしれない。
「すごーい……お姉さん、もしかして魔法使い……?」
「ふふ、どうでしょうね。……さて、これは少し時間が掛かりますから。このオルゴールは、貴女にとってどういうものですか?」
「え? あ、えっと……えっと、ママがいつも、寝るときに聞かせてくれるオルゴールなの」
今日はもう寝ようね。
そう言いながら、布団に入った女の子の頭を撫でる。そしてオルゴールを取り出して、かちかち、螺子が巻かれる。流れ出すオルゴールの部品の優しい音色を聞くと、何故かいつもすぐに眠ってしまう。オルゴールの曲を最後まで聞いたことはない。
「……聞いて、みたかったの」
「このオルゴールを?」
「曲、全部、聞きたくて。……でも、ママ、大きくなったらねー、ばっかちで。触らせてもくれないし、寝るときしか聞かせてくれないから……」
「それで今日、勝手に触ってしまったんですね」
「……うん」
一度くらいなら、きっと大丈夫。
その思いが、こんなに取り返しのつかないことになるだなんて思ってもいなかった。こんなにばらばらになってしまうなんて、想像さえしていなかった。
――壊してしまうかもしれない。
だから触ってはいけないと言われていた。そんなことに、壊してしまってから気付いても遅いのだけれど。
「……このオルゴールについて、お母さんから何かお話を聞いたことは?」
「え、ううん……何も……」
当たり前に日常の中にある、オルゴール。毎日、寝るときに聞かせてもらうもの。
それ以上のことは知らないし、聞いたこともない。そういうものだと思っていて、疑問を抱いたこともなかった。
ふ、と店主が笑って、その指が動いた。机の上から手が離れていき、その指先から伸びていた光の糸が消えていく。そうして机の上に残ったのは、女の子にとってはよく見知ったオルゴールの木箱。
「……え。え!? 直ってる……!?」
「はい。言ったでしょう? 直せます、と」
「すごい……すごーい……! お姉さん、やっぱり魔法使いでしょう!? ありがとう……!」
あれだけぼろぼろに砕け散ってしまったのに。元の形なんて、分からなくなってしまっていたのに。
思わずオルゴールに手を伸ばした少女を、店主が押し留める。きょとんとして店主に視線を向けると、眼鏡を掛けたままの店主がしい、と人差し指を唇にあてた。そのレンズの中で、星が流れ落ち。
――てぃりん、
「あっ……」
思わず声が漏れた。優しくて穏やかな、いつも通りのオルゴールの音色。店内に響き渡るのは、いつも聞いている曲。その音色に合わせるかのように、店主のプラチナシルバーの髪が揺れて、まるで踊っているように見えた。
「……良かった。この子、また歌えて嬉しそうですね」
「すごいね、お姉さん! 直してくれて本当にありがとう……!」
「どういたしまして」
オルゴールの音色が響く中、店主の手が柔らかく少女の頭を撫でた。途端、安心してしまったからだろうか。或いは泣き疲れていたからか、いつものようにオルゴールの音色を聞いたからか。瞼が重くなって、ふわりと意識が遠のいていく感覚。
修繕されたオルゴールの向こう側。空だった小瓶の中に、オルゴールの音に合わせてしゃらしゃらと温かなハニーゴールドの砂が降り積もっていくのが見えたのを最後に、視界は暗転した。
「――この子は、お母さんに負けないくらい貴女のことが大好きだって歌っています。帰ったら是非、オルゴールの話、お母さんに聞いてみてくださいね」
「……ん……?」
「あ、起きた? おはよう」
「……まま……?」
いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。
恐らくは帰ってきた母が掛けてくれたのであろうブランケットを握りしめ、少女はきょろきょろと周囲を見回す。いつもと何ら変わりない家、いつも通りのリビング。どうやら本を読んでいるうちに、転寝をしてしまったらしい。
のそのそと体を動かして、座る。何かとても綺麗で不思議な夢を見ていたような気がする。内容は何も思い出せない。
――オルゴール。
ふとその単語が思い浮かんで、少女は母に視線を向けた。母は夕飯の準備だろうか、キッチンにいるようだ。
「……ママ! あの、ね、あの、オルゴール!」
「オルゴール? 急に何? オルゴールがどうしたの?」
「え、っと……何でいっつも、寝るとき聞かせてくれるのかなあって……?」
頭に浮かんだ疑問を、そのまま口に出す。どうして急にそんなことを疑問に思ったのかも分からない。ひょっこりとキッチンから顔を出した母が、あはは、と笑う。
「それはまあ。だって、よく寝れるでしょ? 子守歌代わりにしてんのよ」
キッチンから出てきた母が、途中にある棚を空けてオルゴールを取り出した。木箱を手にリビングの少女のところまで歩いてきて、少女の前に腰を下ろす。
ぱか、と開かれた木箱の中。少しくすんだ、しかし確かに輝いている金色の機構が収められているのが見えた。
「これね、ばあばがくれたの。ママが子供の頃にね」
「ばあば?」
「そ。ママもあんまり覚えてないんだけどね、店でどうしてもこれが欲しい! って駄々こねたんだって」
「……え、ママが?」
「ママも子供だったから。まあそれで、あんまり欲しがるものだから、誕生日プレゼントでもらったの。ずーっと大切にしててね、パパと結婚してもこれは持っていく! ってなっちゃうくらい、大切」
「大切? お気に入り?」
「そうね。ずっと毎日この音を聴いてて、あなたが生まれる前も生まれた後もずーっと聴いてたんだけど……ふふ、面白かったの」
「何が?」
「あなた、赤ちゃんのときからどんなにびーびー泣いてても、このオルゴール聴くとぴたっと泣き止んですやすや寝ちゃうんだもん」
今もそうでしょう。
楽しげに笑って、母は少女の頭を撫でる。――だって、このオルゴールの音を聞くと自然と安心してしまうのだ。どうしてと聞かれても、理由は説明できない。ただずっと、少女にとってこのオルゴールの音色は、そういうものだった。そしてきっと、これからもそうだ。
「お腹の中にいるときからずーっと聴いてるからかもしれないね」
「そういうもの?」
「多分だけどね。……今はまだ触らせてあげられないけど、いつかあなたがお嫁に行くことがあったら、このオルゴールあげようかなあ」
「え、ほんと!?」
「まだまだ先の話だけどねー」
おどけたように笑いながら、母がオルゴールの木箱を閉める。その瞬間ふわりと甘い金色の砂が跳ねて、溶けて消えていった。