05 CD
子供を学校に送り出して、家の掃除。いつも通りのその作業の中、ふと目に入ったのはCDラックだった。
サブスクリプションや配信で音楽を聴くのが主流になって久しい。すっかりCDというものに触れることがなくなったな、と思いつつラックを眺め、不意に1枚のCDが目に留まった。手を伸ばして、その列から取り出す。
ケースがひび割れた、CD。
「……そっか。ここにあるままかあ……」
ぼそり、独り言が主婦の口から漏れる。このCDを初めて手に取ったのは、今は遠くなってしまった学生時代のこと。ケースが割れてしまった後、他のCDと一緒にしまいこんだまま、数度の生活環境の変化と共にこの場所に落ち着いていたらしい。
ケースのひび割れを指でなぞる。ちくんと痛んだのは、指先ではなく胸の奥。思い出した記憶を振り払うように首を横に振り、掃除に戻ろうと顔を上げて――そのまま固まった。
一体、ここはどこなのだろう。
見慣れた家の中ではない。星空と夕闇が混じりあったような空が目に入って、次に認識できたのは石畳の路地。そのまま視線を自分へと落としてみたものの、朝着替えたときのままの服装。先ほどまでと何も変わりはない。
「……え、え、何……?」
「これはまた、珍しい迷い人ですね」
「へ……?」
声が聞こえたのは、背後から。反射的に振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。人とは思えないほどの美しさを目の当たりにして、ただでさえ動いていない思考が完全にフリーズする。
「初めまして、私はエイオンと申します。この街で修繕屋の店主をしている者なのですが」
「しゅ、修繕屋……?」
「――貴女は、その子を直したいのでしょうか」
「……へ」
何を言われているのか、咄嗟に理解ができなかった。す、と店主の指が伸びる。指されているのは自分の手の中だと気づき、視線を動かし。
そこには、ケースが割れたCD。それを見た瞬間、やはり掃除をしている最中だったのだ、と場に似つかわしくないことを思う。
「直せるん……ですか?」
「貴女にその気があるのなら」
「そりゃあ、まあ、直るなら……?」
ケースを直すだけなら、入れ替えるだけで事足りる。が、しかし。思い出したのは、このケースが割れたときのことだ。
――ケースが直ったくらいでは、どうにもならない。
だからしまいこんでいたのだ。そうしてほかのCDと一緒に並べて、何事もなかったかのように。
「……や、やっぱりいいです」
「そうですか」
「あ……あの」
「何でしょう」
「CD自体って、直るもの、なんですかね……?」
「貴女にその気があるのなら」
主婦の問いに、店主は先ほどと同じ言葉を繰り返す。それは直せる、ということではあるのだろう。頼めば、このCDは元通りになる。
――今更元通りに戻って、何になるのだろう。
何もかも今更だ。CDが元通りになったからといって、何かが変わるわけでもない。きっと今まで通り、ラックの中にしまいこむだけ。
「修繕の対価として、その子と貴女の思い出をお話しいただけるなら、元通りにいたします」
「私と、CDの、思い出……」
どうしてそんなものが対価になるのだろう。この不思議な状況と、何か関係があるのだろうか。
「……お願いします」
悩みとは裏腹に、口からはそんな言葉が漏れ出ていた。どうしてそう言ってしまったのかは分からない。この場所の空気に流されてしまったのかもしれないし、或いはもっと別の何かがそう言わせたのかもしれない。
主婦の言葉に、店主は静かな一礼を返し。
「――それでは、店内へどうぞ」
案内された店内は素朴だが、やはり不思議なもので満ち溢れていた。すごい、と感嘆の独り言を漏らす主婦に、店主は椅子に腰掛けるよう勧める。おずおずと腰を下ろして、主婦は目の前の机にそっとCDを置いた。否が応でも目に入る割れたケースから、どうしても視線を逸らしてしまう。
「それでは、失礼しますね」
「……、はい」
店主の手がCDに触れ、どくんと心臓が嫌な音を立てる。ぐぐ、と膝の上で両の拳を握ってしまったのは、緊張しているからなのだろうか。
ケースが割れてしまっているからなのだろう、CDに触れる店主の手つきは優しいものだった。ケースが開き、慎重にディスクが取り出される。その裏側には、肉眼で分かるほどの大きな傷があった。
「……あの、そのCD、落として……それで……」
「落ちたときにケースから外れてしまったんですね」
「……はい。えと……それでも、直りますか……?」
まるで言い訳をする子供のようだ、と思ってしまう。
ケースが割れているのは、見れば分かる。中のディスクの傷までは、店主とて予想していたとは思えない。ディスクの裏側など、見えていなかったのだから。これはさすがに直せない、と言われても仕方がない。
しかし、主婦の懸念を意に介する様子もなく、店主はあっさりと頷いた。
「問題なく。修繕を進めている間に、貴女のお話をお伺いしても?」
「え? あ、はい……?」
あまりにもあっさりとした店主の返答に、どうにも戸惑ってしまう。
ケースを割ってしまった。ディスクにひどい傷をつけてしまった。
――だから、このCDの存在を心の奥に押し込めて、努めて忘れたのだ。当時の主婦には、そうすることしかできなかった。今であれば、別の手段を考えることもできたのかもしれないが。
「……学生時代に。友人に、借りたんです。そのCD」
好きなアーティストがいた。
同じアーティストが好きな者同士、放課後に集まって話すのは珍しくない日常となっていた。出演した音楽番組やラジオ番組、新しいCDやDVD。発表されるライブやイベント出演。一喜一憂しながら騒いでいた、あの頃。
とはいえ、校則でバイトは禁止されていた。隠れてやっている子が何人もいることは知っていたが、当時の主婦に校則を破る勇気はなかった。手持ちのお金と言えば両親からもらう小遣い程度で、とてもではないがそのアーティストの全ての活動を追うのは難しかった。
「……シングルのCDは比較的安かったから、自分で買えてたんですけど。アルバムとかDVDとかって、重なってくると学生には結構キツくて。近くにCDのレンタルできるお店もなかったし……。そのときはリリースラッシュで、さすがに今度のアルバム買うのしんどいなあって話してて……」
「ご好意で貸してくださったんですね」
「そうです。すごくいいから、聴いた方がいいよーって。ブックレットもしっかり見たいだろうし、CD貸すから、って」
本当は別の媒体に録音してもらえばよかったのかもしれない。付属しているブックレットは、集まったときにじっくり見せてもらって、その場で返せばよかったのかもしれない。
後から思えば、そういう方法を取ればよかったのだろう。しかし、当時の自分は飛びついた。
割ったのは、故意ではない。ただの事故だ。
「……私の不注意で、CD、落としてしまって。それがちょうど、角に当たっちゃって……」
ケースは割れてしまった。
ディスクには傷が入ってしまった。
再生できるかどうか、確認すらしていない。ディスクに入った傷を見て、怖くなって、そのまましまいこんだ。
まずは謝らなければ。そして、弁償しなければ。
そう思ったはずなのに。
言葉に詰まった主婦に、店主が何か言葉を発することはなかった。ただ、その指先がディスクの傷を緩やかに撫でる。
あ、と小さな声が出たのは無意識だ。店主の指先から光が溢れ、ディスクを、そしてCDケースを包み込んでいく。やがてその光に飲まれて、何も見えなくなった。ただ、眩い。
有り得ない、不思議な現象。しかし何となくすっと受け入れてしまったのは、そもそもこの状況が現実的ではないからだろうか。
沈黙に耐えられず、主婦は落ち着こう、とゆっくりと息を吐く。きっとこのまま、全て吐き出してしまった方が楽だ。楽になりたいだなんて、狡い願いではあるが。
「……ちょうどテスト期間で、集まることもなくて、日が空いて……貸してくれた子はクラスも離れていたから会うこともなくて、言い出せないまま……」
会わないことにほっとしながら、すぐに言えなかった罪悪感が降り積もっていく。
何かと理由をつけて、集まりに参加するのを断るようになってしまった。そうしているうちに、好きだったはずのアーティストを見ることすら苦しくなるようになって、遠ざける理由に受験勉強を使った。
そのうち集まっていたメンバーとは疎遠になっていき、CDのことには触れられないまま卒業を迎え――それきり。
「……どうして謝れなかったんだろう。きっと陰で色々言われただろうし、完全に私が悪いし……そんなこと今思っても、本当に今更なんですよね。このCDが直ったところで……」
あのとき、謝っていれば何か違ったのだろうか。
友人関係は今も続いていたかもしれない。好きだったアーティストのライブに通う生活をしていたかもしれない。出会いも何もかも、違うものだったかもしれない。
それはただの有り得たかもしれない仮定の話で、幻想でしかないものだ。あまりにも滑稽な、夢物語。
「私は伝えました、貴女次第だと。直すことを選んだのは貴女です」
「……、はい」
「その先を選ぶのもまた、貴女です」
店主の声は、淡々としたものだった。冷たくも温かくもなく、責めるわけでもなければ慰めているわけでもない。ただ、事実だけを述べている。
言葉が出ずに、主婦は視線を落とす。机の上、知らぬ間に置かれていた小瓶の中には、重い銀色の小石が詰まっていた。
「……きっと何も変わらないです、私。今更そのCD、返せるわけでもないし……」
「そうですか」
「でも、壊れてなければ、いつかもしかしたら。そう思うことで、楽になりたいだけです、多分」
「それが貴女の選択なら、構わないと思いますよ」
「……わ……」
机の上の光が消える。その中から現れたのは、僅かに擦れた傷があるだけのCDケース。そして、ディスクの傷は綺麗に消えていた。
状態を確認して、店主は丁寧にディスクをケースに戻した。閉じられたケースは、そっと主婦の方へと滑らされ。
「――どんな理由があれ、それは貴女の大切なものであることに変わりはないのですから」
ぼうっとしていたことに気付いて、はっと時計を見る。それほど時間は経っていない――懐かしいCDを見つけて、思い出に浸ってしまっていたらしい。
返せていないままのCD。相手が今、どこで何をしているのかも分からない。今更返す方法もないのだ、ずっと手元にあり続けてしまうのだろう。
「……あれ、ケース割れてなかったっけ」
唐突に感じる違和感。ケースに傷はあるが、割れていたような形跡ではない。見間違いか、記憶違いか。そんなはずはないと思うものの、どうにも自信が持てない。
長らく聴いていないアーティスト。久しぶりに聴いてみるのも、悪くないかもしれない。
ふと、そんな考えが頭を掠める。オーディオの類は使わなくなって処分してしまったが、パソコンでなら聴けるだろう。或いはサブスクリプションを探してみてもいいかもしれない。
そんなことを考えて、しかし主婦はそのCDケースを開くことなく、元あったラックの中に戻す。ともあれ、今は掃除中だ。懐かしい思い出に浸る前に、日常を片付けなければならない。
後で、覚えていたら。
そう決めて、主婦は途中だった掃除を再開したのだった。