Hidden Mystery - 03
それから『院』を離れて拠点のホテルへ戻る頃には、既に真夜中を過ぎていた。帰る前に恭とアレクから来ている仕事の報告にはざっと目を通す。今日は無事に終わってホテルに戻っているようでほっとしたのが数十分ほど前。
「ただいまー……」
「ん。早かったっすね……?」
ちょうどシャワーを浴びた後だったのだろう、髪を拭きながら浴室から出てきた恭の姿を確認して。
――そこで気が抜けた。
「ッ……」
立っていられない。ぐらりと揺れた体は倒れる前に恭の腕に受け止められて。心臓がばくばくと音を立てている。呼吸の仕方が分からない。きもちがわるい。ぐるぐると体の中で何かが暴れているような感覚。
「律さん!? 何持って帰ってきたんすか!? ぶんちゃんアレクさん呼んで!」
『おう!』
「……、むり、はく、」
「吐ける!? 大丈夫すか!?」
「ッ……」
「あ、だめだこれ、律さん口開けて」
「はっ……ぐ、」
辛うじて開いた口に恭が無理矢理指を突っ込んで、下を向かせて舌の奥を押してくれる。反射的にえづいてそのまま込み上げてきたもの。喉に引っかかる感触、大き過ぎるのかそれとも吐き出されることへの抵抗なのか、どうにも吐き出せない。何度試しても上手く吐き出せないのを見た恭が、思い切り律の背中を叩いた。
弾みでごぼ、と溢れたのは真っ黒な血の塊のような何か。恭の手を濡らしてべちゃりといつの間にか敷いてくれていたタオルの上に落ちたそれは、震えるように動いている。それでも吐き気は収まらない。首を振れば何度も同じように吐き出させてくれる。ごぼ、ごぼ、と溢れてくるそれは凡そ人体に収まっていたとは思えない量で、あっという間にタオルには収まりきらずに床へと広がっていく。
「これどんだけ放置して持って帰ってきたんすか律さん……!?」
「呼ばれた! リツ大丈夫!?」
「アレクさん律さんやばい!」
「見たら分かる! ごめんちょっと噛むね、痛いけど我慢して」
黒い霧と共にどこからともなく現れたアレクが、惨状を見て顔を顰める。こくこくと頷く律の反応を見てから、アレクが律の首筋に歯を突き立てた。ぶわりと律の体内に治療の術が広がっていくのを感じる――が、しかし。
「いっ……、ぁ、!?」
「ええもう嘘でしょこの術者はリツのこと殺す気でやったわけ!? 弾かれてるよ!?」
「じゃあどうしたらいいんすかこれ! 律さんしっかりして!?」
「っ……ひ、だり、ひだりて……」
「左手!?」
全身に走った激痛で揺らぐ意識の中、何とか絞り出した声に反応してアレクが律の左手を取る。魔術の使用過多で負担が掛かった左手、丁寧に巻かれた包帯は律が吐き出したもので汚れている――意味が分からずに首を傾げる恭の隣でアレクが慌ててその包帯を外した。途端、その包帯は律が吐き出した黒い血の塊のようなものに変化して零れ落ちていく。
「……うっそでしょ……」
「ここからずっと体内に入り込み続けてたのか……リツもう一回噛むからね、我慢してて」
再度首筋に突き立てられる鋭い歯、再び体内に広がる治療の術は今度は反発することなく構成されて広がっていく。ようやっと体が落ち着いていく――苦痛が引いていく。
意識を保っていられたのはそこまでだった。恭が何度も自分の名を呼んでくれる声を聞きながら、律はそのまま意識を手放した。
意識を取り戻す頃にはほぼ丸一日が経過していた。いつの間にかベッドに寝かされていて、部屋の中に人の気配はない。体を起こすと、ベッドのサイドテーブルに汚い字のメモ。『仕事してきます』と書き残されたそれは恭からだ。看病するとごねたところをアレクに引き摺っていかれたのだろうなと何となく想像がついて、少しだけ笑う。
深呼吸。体に異常はない。模擬戦で負った怪我も全て治療されている。やはり今回の『院』の呼び出しを受けてアレクに助力を要請したのは正しい判断だったようだ。あの吸血鬼の『ヒーラー』は、こと治療においては非常に信頼出来る――時折暴走するリスクに目を瞑れば、だが。
溜め息を吐いて眺めた左手。この手にあの包帯を巻いたのはパトリックだ。あの時から嫌な予感はしていた。パトリックは律が早く帰れるように慮ってくれた。だから、その配慮に対する対価として。
「寄生型魔術の実験台にされるのはちょーっと釣り合わないな……」
死ぬかと思ったというより、アレクがいなければ死んでいた。平気でそういうことをしてくるから、パトリックも『院』の人間だなとしみじみ思う。別段油断していた訳ではない。怪我の治療をする、ではなく左手に包帯を巻く、ということを言われたときから何かされるであろうことは予想はしていたし、話しながら何かしていることも分かっていた。それでも甘んじて受け入れたのは。
「ただいー……あっ律さん起きてる! 体大丈夫すか!?」
「さっき起きたとこー。もう大丈夫だよ、ありがとう」
帰ってきた恭が律の姿を見るなりすっ飛んでくる。その速さに感心しながらもひらひらと手を振ると、よかったあ、と脱力して、恭はベッドの縁に寄りかかるようにして座り込んだ。
心配を掛けてしまったことは重々承知している。今回は早く帰れた分酷過ぎた――とはいえ、あのまま長時間滞在していても別のことが起きていただけなので、どちらが良いかは分からない。自分一人で対応しなくてよかっただけマシなのかもしれないので、こればかりは難しいところだ。
「何か律さんが吐いた気色悪いヤツはアレクさんがべちべち倒してくれたっすよ」
「あ、そうなんだ。アレクにお礼しないとな……」
「起きたらゆっくり休んでって言っといて! って言われたっす。もう一日くらい休んでて大丈夫すよ、アレクさん手伝ってくれるって言ってたし。あのひと律さんの物真似上手くなりすぎて面白い」
「何それ気になる」
体に不調は見られないとはいえ、もう一日休めるのは有難い。本当にどこにも異常がないかじっくり確かめておかないと、簡単には分からない何かが仕込まれている可能性も否定はできないのだ。
はあ、と深い溜め息を吐いた恭は、そのままベッドに頬杖をついて律を見上げて。
「つーか死にかけたんすから反省して」
「はいすいません」
「何であんなんここに持って帰ってくるまで我慢したんすかー。最初の方なら何とか出来たんじゃないんすか?」
「んー、まあ多分……? でも外して『院』から追っ掛けてこられると対処しきれる自信もなくて……」
――何より、律は雪乃ではないので。「ある程度思いどおりになる」ことは、どうしたって必要になる。そうすることで『院』との距離を保っている。
そうしなければ、恭や桜に害が及ぶかもしれない。かつての雪乃のパートナーが『院』の手に掛かったように。それを避けるには、自身がある程度犠牲にならざるを得ないのが今の現状だ。
あんな目に遭うのは、自分一人で充分だ。そんなことを口にしたら恭は怒るだろうがしかし、恭がいてくれるから何とかしなければと思う。どうやって切り抜けるかを考えることができる。何より自分に何かあれば必ず恭は助けてくれるという信頼があるので、多少の無茶も出来るというもので。
「……俺も魔術どーのこーの分かったらなー、アレクさんみたいに律さんのこと助けられるのに……」
「いや恭くんにはまじでセンスないから無理」
「ひでえ! そうっすけど! くっそ桜っちに報告入れよ、律さん死にかけたって」
「ごめん本当にそれはやめて」
膨れる恭に笑いながら。
――無事に生きていることに、安堵した。