Adnis Blue - 04
数日後、茅嶋家にて。
こんこん、とドアをノックすると、どうぞーと中から律の声が聞こえる。ドアを開けて中に入れば、書類を整理している最中の律がいた。
「お邪魔します、茅嶋さんっ。ごめんなさい、忙しいときに」
「もう終わりかけだから大丈夫だよ。憂凛ちゃんが2人で話したいなんて珍しいね」
テーブルの上でとん、と書類を揃えてから、どうぞ、と律が椅子を指し示す。勧められるがままに腰を下ろして、ふう、とひとつ深呼吸。
こうして律と二人で話すのは本当に久しぶりだ。いつもは大抵恭か桜が一緒にいることが多い上に、別段二人で向かい合って話す必要があることがあまりなかった。しかし今回ばかりは、律と話しておかないわけにはいかない。恭は気にしなくていいと思うけどな、と最後まで首を傾げていたが。
「茅嶋さんと恭ちゃんのお仕事に支障出しちゃったことを謝りたくて。本当、ごめんなさい」
「あー……仕事の調整の話? そんなの気にしなくていいのに」
「ううん。本当は私が恭ちゃんのメンタルケアしなきゃだったのに、今回きっかけがあれだったとはいえ恭ちゃんを今の私のことで思い悩ませちゃったのは、事実だから」
憂凛の言葉に、律は少し笑って首を横に振る。本当に別段気にしなくていいということなのだろうが、恭のメンタル面が心配だから――という言葉の裏に憂凛を心配してくれていたことさえ気付けなかったのは、本当に申し訳なく思う。憂凛を心配している今の恭を、憂凛から引き離すわけにはいかない。それがここ最近ずっと律が海外仕事を受けていなかった理由なのだと恭から聞いたときは、真剣に土下座しなければならないのではないかと思ったほどだ。
「まあ確かに憂凛ちゃんが元気でいてくれると恭くん元気なんだけどね」
「う、ごめんなさい」
「でも俺はどっちかっていうと憂凛ちゃんが悩んでる気持ちの方が分かるし。憂凛ちゃんが一回恭くんに全部弱音吐けるまでは、と思ってさ」
「本当、ご迷惑お掛けしました……。……ところで茅嶋さんその件でひとつ聞きたいんですけど」
「ん?」
「恭ちゃんが今回私に話聞いてくれたやり方って、茅嶋さんの入れ知恵ですか?」
「げほっ」
思いがけない質問だったのか、図星なのか。盛大にむせた律の姿に、憂凛は笑う。
今回のことについて、恭は本当に時間をかけて色々なことを考えてくれたことはよく分かる。だが、どう考えてもずっと一人で悩んでいたわけではないだろう。こんなとき恭が誰に相談するか、ということを考えれば、その先が律であろうことは想像に難くない。
そもそも、あまり恭らしくはなかったのだ。思ったことが考えるよりも前に口から出るタイプの恭は、話が支離滅裂になることも非常に多い。憂凛が話しやすいようにするために、どうするか。そういった相談を、恭は律にしているはずだ。
「……入れ知恵っていう言い方は……どうかな……」
「あはは」
「でも、本当にちょっとだけかな。何をどう話すかとかは、恭くん自分でめちゃくちゃ悩んでたから」
「うん、知ってます」
「でしょ、俺のアドバイスなんて微々たるものだよ。……憂凛ちゃんから見てどう? 今の恭くん」
「うちの旦那さんめちゃくちゃかっこいい」
「夫婦で似たようなノロケ方するな!? 仲良いねほんと……。それは置いといて、精神的な感じで」
「んん……」
渚のこと。小夜乃のこと。そしてそれ以外にも、たくさんのことを恭は抱えている。抱えているのに、それでも彼は笑うから。前を向き続けるから。
その芯の強さは、けれどとても危ういものだ。
「……恭ちゃんが自分が殺されたこと気にしてなさ過ぎて心配……」
「分かる」
「ですよね。自分が弱かったせいだ、って恭ちゃん言ってくれるけど。でもそれって突き詰めて考えていくと、恭ちゃんってすごい自責の念が強いんだなって……人を責めない分、自分のことめちゃくちゃ責めてるんだなって改めて思って……だから忘れて逃避してた部分もあるのかなと思っちゃった」
「うん。めちゃくちゃポジティブなのに内罰的なとこあるんだよなあの子。アンバランス」
「そういうのってやっぱり、『誰かがいなくなるのが怖い』に帰結してるんですかね、恭ちゃんの場合」
「多分そう。自分が傷つくことより誰かが傷つくことの方が嫌で、自分が傷ついてもそれで誰かが助かるなら救われる、そういう節はある」
「……『ヒーロー』だなあ」
「そうだね」
律や憂凛のように血筋によるものでもなく、或いは『彼岸』の影響によるものでもない、恭が先天的に持つに至った『ヒーロー』転じて『セイバー』としての力は、その性格によるものなのだろう。或いはその力故に性格が形成されていったのか、その辺りのことは誰にも分からない。
「……やっぱり、ちゃんと恭ちゃんのこと支えられる存在でいたいな。今回みたいに私の方が弱っちゃ駄目ですね」
「たまにはいいんじゃないの、と俺は思うけどね。……大丈夫だよ、恭くんいっつも、『ゆりっぺとういうい待ってるから帰らなきゃ』って言ってるから」
――帰る場所があるのは、心強いよ。
そう言った律の表情は柔らかくて。きっと桜のことを考えたのだろうとすぐに想像ができて、思わずくすりと笑ってしまった。
更にその数日後。
仕事で久々に海外に発つことになった恭のスーツケースに着替えを入れている間、恭は憂生の面倒を見てくれていた。きゃっきゃとよく笑う憂生は、恭に遊んでもらえるのが嬉しいのだろう。よく懐いているなと思うことも多いので、恐らくパパっ子だ。そのうち娘と恭の取り合いになるかもしれない、と至極真面目に一瞬考えて、容易に想像ができて思わず笑ってしまう。
「お、ママ何か楽しそうだぞういういー、何かいいことあったのかな」
「なー?」
「ちょっと笑っちゃっただけ。……パパとうーちゃんほんとよく似てるねえ」
「そんな似てる?」
「うん、似てる。パパが二人いるみたい」
「……それ俺が子供だって話?」
「あはは」
ひょいと軽く抱っこした恭にしがみつく憂生の顔を見ながら、しみじみと。よく似た顔立ちだから、将来はきっと美人になるだろうと勝手に思っている。
放っておけばジャージばかりとなっている私服と仕事用のスーツにワイシャツの替えを何枚か。今回は一週間ほどで帰ってくる予定だと聞いているが、いつも少し多めに入れるようにしている。滞在が延びることがあるということもあるが、1日に何度も着替えることになる事態も想定してのことだ。現地で買ってしまえば済むことではあるが、体を動かすことが基本である恭の場合、着慣れたものの方が動きやすいだろう――本人は気にしていないかもしれないが。
怪我をしませんように。無事に帰ってきますように。そうやってひとつひとつ、願いを込めて。
「用意するの久々だから、忘れ物ないか心配だなー」
「だいじょぶだいじょぶ、ありがと! いつも助かる」
「どういたしましてっ。うーちゃんまだ寝そうにないね」
「元気いっぱいだからなー。……帰ってきたらまーたでかくなってんだろなあ」
恭にうりゃうりゃ、と構われてきゃっきゃと喜ぶ憂生が寝付くのはまだもう少し先になりそうだ。一週間の仕事が終わって帰ってきた後は、また違う場所に長期で出ていくことになるであろう恭は憂生といられる時間がどうしても短くなる。日々成長する娘を見守れない、というのは寂しいところもあるのだろう。
「またいっぱい写真送るね」
「うん、楽しみにしてる!」
「……だいじょぶそうなときに電話してもいい?」
「全然いいよ。顔見たいときは言ってくれたらぶんちゃんが何とかしてくれる」
「ふふ、ありがと」
あれから恭と長期間離れることになるのは初めてだ。きっと大丈夫だとは思っているものの、一抹の不安は拭えない。どうしようもない不安に襲われてしまったら。――ああ、それでも。
きっと大丈夫だと思えるのは、恭と不安を共有できたからなのかもしれない。
「アリスちゃんうちに置いてって大丈夫なの?」
「うん、俺のことよりゆりっぺとういういのことのが心配だし。アリスちゃんこっちにいてくれると俺も安心」
「そっか」
「……、今日3人で寝る?」
「あ。いいの?」
「明日朝の便だからすっげ早い時間に起こしちゃうかもだけど」
「そんなの全然大丈夫! 一緒にいたい」
「ん、じゃあそうしよ」
にこにこと嬉しそうに笑ってくれる恭の笑顔を見ながら。
――どうかこの平穏ができるだけ長く続きますようにと、小さな願いを。
「30年分くらい頭使ったからもう何も分からん……気分悪くなる……」
「え、それもうこの先一生馬鹿じゃん勘弁してよ、ただでさえ馬鹿なのに」
「ノータイムでそれ言う?」
空港に向かう、伊鶴が運転してくれる車の中で。
律と二人、次の仕事の資料を眺めている最中。何回読んでも頭の中に入ってくる気配はなく、恭は唸りつつ窓の外に視線を向けた。車酔いは避けたい。あはは、と笑う律の声のトーンは明るくて、何の心配もしていないのがよく分かる。
「ちゃんと話聞いて、話して、一応ひと段落って昨日言ってたじゃん」
「うんまあそう……、てかちょーむずかったんすけど! 何も言わずに聞くって難しい! すぐ何か言いたくなる!」
「でも我慢して話聞けたんでしょ? えらいじゃん」
「へへん。ちゃんと聞けって言われたのもあるけど、そいや昔律さんがああやってくれたなー、っていうの思い出して頑張った」
「そうだっけ」
「そうすよ」
本人はきょとんとしているので、もしかしたら本人にあのときそのつもりはなかったのかもしれない。それにあのとき――憂凛に別れを告げられた最初のとき、恭は律に何も話すことができなかった。タイミングを逃してそのままずるずると何も話さないまま、律からも何も聞かれないままではいたものの、あのとき黙って傍にいてくれた律の存在は本当に有難かったのだ。
あのとき無理矢理聞き出されていたら。想像はつかないが、きっと何も言葉にすることはできなかった。律の傍にもいられなくなっていたかもしれない。
何も言わないという優しさもあるのだと、知った日。
「……いーっぱい考えて、多分ゆりっぺならこういうこと考えてるだろうなとか思ったの、大体合ってた。俺いっつもゆりっぺに頼ってばっかだから、ちゃんと話さなきゃなあって反省したっす」
「そっか」
「ゆりっぺ、律さんに何か言ってました?」
「ん? 別に。謝ってたくらいだよ。ま、仲良い夫婦だなと思ったけど」
「え、何で」
「ノロケ方が一緒」
「どういうこと?」
首を傾げる恭を見て、書類で口を隠して律は笑う。教えてくれる気はないらしい。憂凛が惚気けているという話は恭としてはあまり聞かないので聞いてみたい気持ちもあるが、今そんな話を聞いたら会いたくなってしまいそうだ。
「……でもまあ、多分きっと、俺はゆりっぺの気持ちの半分も分かんないとは思うんすけど」
「うん」
「俺のことでしんどいとかつらいとか、そういうのやだし。俺はやっぱゆりっぺに笑ってて欲しいし、でも無理して笑ってほしいわけじゃないし。心配させないのは無理だから、その代わり一緒にいるときは安心してほしいなーって思ったりとかするけどー、分かんない」
「ま、難しいよね。こんな仕事してる限りはね」
「辞めないっすよ」
「辞められたら俺も困ります」
頼りにしてるから。嘯くようにそう言って、律の視線が書類に落ちる。言っておきながら照れているなというのが見て取れて、思わずにやりと口元が緩んだ。