Adnis Blue - 03
恭が渚のことを自分の責任だと先に言い切ったのは、憂凛の中の気持ちをきちんと理解していたからなのかもしれない。先にそうやって言っておくことで、憂凛が話しやすくしようということだろう。律と先に話したと言っていたから律の入れ知恵なのか、それとも恭が天然でやっているのか。どちらにしても、少しだけ心のハードルは下がった気がする。
――深呼吸を、ひとつ。きちんと応えなければ。話さなければ。こうして恭が、話してくれたのだから。
「……あの、ね」
「うん」
「また恭ちゃんにひどいことしちゃうかもしれないっていうのは……多分ずっとあって。普段は考えないようにしてるけど……」
「うん」
「なぎちゃんやさよのんがあんなことになっちゃったのも……、元を正せば私が恭ちゃんにあんなことしちゃったところから始まってて……私があんなことしなければ、私がいなければ、ってどうしても考えちゃって……」
「うん」
「……なんか、前はもっと、恭ちゃんを支えなきゃ! って感じだったんだけど……この間きっと、怖かったんだと思う」
「怖かった?」
「私、恭ちゃんが大変なときに、何もできないなって」
――戦うことしかできない自分に、できることがないことがつらかった。
けれどそれはいつもそうだ。いつもできることはない。仕事に行く恭を行ってらっしゃいと見送って、帰ってくることを待つことしかできない。どんな死地にいてどんな怪我を負っていようと、恭が言わない限りそれは分からない。帰ってきた恭をおかえりなさいと出迎える、それだけだ。
「それに……今恭ちゃんとこうしていられるの、すっごく幸せなことで、私にとっては奇跡みたいで」
「うん」
「我慢してるつもりは、何ていうか、全然ないんだけど……」
「うん」
「どうなのかな、我慢してるのかな……。我儘言って、恭ちゃんが私に呆れちゃって、離れていっちゃうんじゃないかなっていうのが、多分、怖くて……」
「うん」
「……っ、」
「だいじょぶ。ゆっくりでいいから、教えて」
握った手を開いて、指を絡めて握り直して。力の籠った大きな手が憂凛の手を包み込んでくれる。温かいそれに、ぼろりと涙が零れて。
――ああ、きっと。だから、この人のことを好きになったのだと。
「……っ、ほん、とは、」
「うん」
「恭ちゃんに、お仕事、してほしくない、死ぬような危険な目に遭ってほしくない、ずっと傍にいてほしい、遠くに行かないでって、一秒だって目の届かないところに行ってほしくない、でも一緒にいたって私が恭ちゃんのこと苦しめるかも、って、また何か起きても、もうさよのんはいないし、私は何もできないし、怖くて、不安で……ッ」
「うん」
「恭ちゃんにもう傷ついてほしくないのに、でもお仕事、茅嶋さんと一緒にやるために頑張ってきたの知ってるし、そんな我儘言いたくないし、傷ついてほしくないなんて、恭ちゃん傷つけてる私が言う資格なんてないし、情けなくて、こんなの、私、恭ちゃんの隣にいる資格ない……」
涙と共に言葉が溢れて止まらない。ごめんなさいと呟けばゆるゆると恭は首を横に振る。繋いだ手に力が籠る。それはまるで絶対に離さないと告げているようで、余計に涙が止まらなくなる。
こんなかんじょうはただしくないのに。
もっときちんとただしくいなければならないのに。
「……俺さあ、ゆりっぺに感謝してることいっぱいあるんだけどさ」
「かんしゃ……?」
「うん。……松崎先輩のことでめっちゃぐるぐる悩んでた俺に、ゆりっぺ何て言ったか覚えてる?」
「え……」
「一人で悩んだらだめだって、ゆりっぺがそう言ってくれて俺めっちゃ救われたんだけど。……俺の我儘としては、そーゆーのもっと早く教えてほしかったなー?言いにくいけどさ」
「だって、でも、」
「そもそも俺の隣にいる資格って、俺が隣にいて欲しいって思ってるからじゃだめなやつ? 俺ゆりっぺ居てくれないとめっちゃ困るんだけどなー」
茶化すように笑いながら、恭の目は真っ直ぐに前を見据えていた。悩みながら、苦しみながら、それでも恭は前を向くのを辞めない。
誰も失いたくないという恐怖が、いつだって彼に前を向かせる原動力になっているのだと、知っている。
「俺、仕事は辞めらんない。それはごめん。律さん一人で戦わせる訳にはいかない。あの人すぐ無茶すっから、俺が止めないとさ」
「……、うん」
「でもゆりっぺがずっと俺のこと待っててくれるから。いっつもおかえりーって笑って迎えてくれるから。だから俺は絶対帰るんだーって頑張れるんだよ」
「……きょうちゃん、」
「俺が安心して帰るぞ! ってなるためにもさ、不安になったらちゃんと教えてほしいし、気持ち押し殺さないでちゃんと言ってほしい」
「……いえないよ」
「だーめ。言って? 俺空気読むとかめっちゃにがてー」
「……しってる」
「ゆりっぺ元気ないなーって思ったら心配になっちゃうから、それで仕事手つかなくなっちゃう方が俺は困る」
「……でも」
「俺はね、俺の奥さん世界一可愛いので、世界で一番幸せでいてほしいんですよ。だから怖いとか不安とか、そういうのあっちいけー! ってしたい」
ね。と顔を覗き込まれて、びくりと肩が震える。出会った頃から変わらない、優しい笑顔。
――どうして、いつもいつも、この人は。
「俺はずっと、ゆりっぺの『ヒーロー』でいたいからさ」
溢れだすものが何一つ止まらない。
憂凛にとって、恭はずっと『ヒーロー』だ。守ってくれる、守ろうとしてくれる、守るための努力をずっと続けている。それを知っている。いつだって――今だって。
「ゆりっぺ泣きすぎ泣きすぎ」
「だ、って」
「おいで、だいじょぶだから」
体ごと憂凛の方を向いた恭が、繋いだままの憂凛の手を引いて。あ、と思う間もなくぎゅうと抱きしめられて、余計に涙が止まらなくなる。あたたかくて、やさしくて。とくん、とくん、と恭の心臓の鼓動の音が聞こえて、彼が今ここで生きていることを実感する。
これは自分に向けられるにはあまりにも勿体ないのに、そんなことをしてもらえる人間ではないのに、それでもどうしようもなく手放せない。
「……俺多分前にも言ったことある気がすんだけど、ゆりっぺにいくら気にしないでっつっても気にするの分かってるし、そもそも俺はずっとあんとき俺がもっとちゃんと知識があって、もっと強かったらゆりっぺにあんなことさせなかったのに、っていうのはずっとあって」
「そんなことっ」
「うん。ゆりっぺが俺にそう思ってくれるの分かってる。だからこの件は、あれです、お互い様? だから……気にしちゃってどーしようもないときは、ほんと、ちゃんと話してほしい」
「……うん。ごめん、なさい」
「あとは? 俺に言っときたいことない?」
今なら何でも聞いちゃう、なんて茶化したように笑う声に安心する。安心させようとしてくれる、その気持ちがとても有難い。それだけ大切に想ってくれているのだと、そのことがよく分かる。
そんなきもちをむけてもらえるようなそんざいじゃない。
頭の中に浮かんだその言葉を振り払う。その気持ちはきっと、間違いなく、これだけ自分を想ってくれている彼に失礼だ。あの時『黄昏の女王』が『あの子が一番傷つけるようなことを考えている』と言ったのは、きっと自分のこういう部分で。
「……いっぱいある……」
「よっしゃ全部聞く」
「……恭ちゃん、あのね」
「うん」
「恭ちゃんにとってさよのんって、どんな存在だった……?」
「へ? 小夜ちゃん?」
恭にとっては思いがけない質問だったのだろう。表情は見えないが、目をぱちぱちと瞬かせていることは想像に難くない。
「えー……俺の面倒見てくれる人……」
「ふふっ」
「いやホントに。姉貴みたいだなーって思ってたし、命の恩人だし、ホントに頭上がんない。……何のお返しもできてないから、寂しいなって思ってる」
「そっか。……さよのんって恭ちゃんのこと好きだったのかなあ」
「え、ないでしょあの人琴葉先生一筋だよ」
「そっかなー……好きでもない人わざわざ自分の命削って助ける?」
「……いやまあご存知そういうのに疎いからあれだけど……いやでもないと思う……。ほら、ひびちゃんの件って小夜ちゃん殺そうとしたアレだったし、小夜ちゃん的には巻き込んでごめんって感じだったと思う。最後謝られたし。本人に聞けないから本当の本当は分かんないけど」
「あー……」
良くも悪くも、多くと関わりを持ち、多くの存在を認める恭の性格ゆえの。
長く迫害された記憶を持つ小夜乃にとって、恭は一体どんな存在だったのだろうか。彼女にとっても手のかかる弟のような存在だったのか、それとも。考えても答えは出ない。
――それでもやはり、くだらない嫉妬をするべき相手ではないのだと。考え込み続けても仕方の無いことだったのだと思い知らされて、笑ってしまいそうになる。
そんなことすら、分からなくなっていた。
「……恭ちゃんとさよのんの話、聞きたいな」
「お? おっけー。そだな、何かごはん食べながら喋るかあ」
「私泣き過ぎて顔ぐちゃぐちゃなんだけど……」
「あはは。泣き止んだ?」
「……、うん」