Adnis Blue - 02

 結局その日、夕方近い時間に『ごめん急な仕事!』と恭から連絡が入り、帰ってきたのは真夜中近い時間になっていた。

「ただいまー……あああ今日は起きてるういういに会えなかった……」
「おかえりなさい、お疲れさま。怪我ない? 大丈夫?」
「だいじょぶ! 遅くなってごめん」

 恭の言葉通り、彼に怪我はなさそうで。家に入ってすぐ寝ている憂生の頭を撫でながらしばらくその寝顔を眺めていたので、隣に腰を下ろす。じっと憂生を見つめる恭の表情は、いつもと変わらず優しい。

「今日は何もなかった?」
「うん、うーちゃんもご機嫌だったし。アリスちゃんがいっぱい助けてくれたから」
「そか、よかったー。いっつも任せきりでごめんな」
「恭ちゃんはお仕事頑張ってくれてるんだから、謝らなくていいの」

 ――ほんとうに?
 心の中がざわりとして、笑顔で押し殺す。押し殺しながら、先の『黄昏の女王アリス』の言葉を思い出す。
 話さないことには分からない、と彼女は言った。それは確かにその通りで、何も間違ってはいない。憂凛の様子がおかしいことに薄々感づいているであろう恭が憂凛に何も言わないのは、どういう風に聞くべきかをずっと悩んでいるのだろうか。
 あの頃とは違う。こうして隣同士で、一緒に暮らしていて、いつだって話ができる。そういう環境にいる。このまま何も話さずに一人で悩んで、『黄昏の女王アリス』に相談を続けても、憂凛の悩みが晴れるであろう日はきっと来ない。
 きちんと話さなければ、どうにもならない。このままずっと思い悩んでいても、いい結果は生まれない。分かってはいても、どうしても喉の奥で言葉がつっかえる。

「……な、ゆりっぺ」
「えっ!? あ、なに?」
「今日仕事片付いたお陰で明日お休みになったから、ういういを律さんと桜っちに預けてちょっと二人で出掛けない?」
「え」

 恭の視線が憂生から憂凛へと動く。変わらない優しい表情でにっと笑う恭はいつもと変わった様子は何もない。一瞬『黄昏の女王アリス』に何か聞いたのだろうかと思ったが、キーホルダーを憂凜に預けたままの恭に『黄昏の女王アリス』を喚び出すような手段はなく、帰ってきてから話すような時間も全くなかった。
 だからこれは、本当にタイミングが『今』だっただけのお誘いだ。

「……せっかくのお休みならゆっくりすればいいのに、体大丈夫?」
「よゆーよゆー。元気な健康優良児なのが俺の取り柄!」
「うーん……でも……」
「ういうい生まれてから二人でゆっくりデートとかもしてなかったしさ。俺がゆりっぺと過ごしたいの。だめ?」
「……だめ、じゃない」

 こういうとき、恭は狡い。本人に全く自覚はないので、余計に狡いと思ってしまう。
 そんなにちょっと寂しそうな顔をされたら。じっと見つめられたら。――惚れた弱味というのは怖いもので、頷く以外の返答をあっさり憂凛から奪っていった。

「……なんでうちの旦那さんこんなに顔がいいの……」
「え。何」
「何でもない! 茅嶋さんもさくらんもへろへろじゃないの? 大丈夫かなあ」
「だいじょぶ、もうOKもらってる」
「はや」

 つまりは、最初から明日は二人で出掛ける予定にしていたということだ。今日遅くなったのもたまたま仕事が早く片付いたからではなく、明日のスケジュールを空けるために無理をしたのだろうということは想像がつく。そこまでされていたら、やはり憂凛には断れない。
 きちんとこの胸の内を話せるだろうか、という不安がぐわりと押し寄せる。恭から目を逸らして、すやすやと眠っている憂生に視線を落とす。自分と恭の間に生まれた、宝物。この子のためにもきっと、今の自分は良くない――何とかしなければならない。
 この先を、一緒に生きていくために。


 翌朝の恭の早朝トレーニングは、久しぶりにいつも通りに戻したようだった。朝食を作っている最中に帰ってきてシャワーを浴びて、目が覚めた憂生と3人で朝食。その後もベランダに出て煙草を吸う様子はないことから見れば、恭の中で悩み事は一旦落ち着いて固まった、ということなのだろう。

「あれ、恭ちゃん今日は煙草吸わないの?」
「昨日でちょうど切らしたし、最近吸いすぎだったからちょっと禁煙ー。走るのしんどくなるのは良くないし」
「体に悪いからやめてもいいのに」
「完全にやめるのはなー……ちょっと無理かも……」

 ――足を怪我して競技としての陸上を続けていたら、きっと煙草は吸っていなかったのだろうな、とふと考える。煙草を吸い始めたきっかけは吸っている姉の姿が憧れだったから、という話を聞いたことはあるが、恭が成人したのと競技をやめるきっかけになった怪我は同時期だった筈だ。そのときも、無意識に色々と考えながら煙草を吸っていたのかもしれない。
 午前中はゆっくりと3人で過ごして、昼頃に憂生を預けに茅嶋家を訪れた。応対してくれたのは桜で、律は朝方寝たのでまだ起きてこないだろうということで会うことはできなかった。桜に憂生のことを頼んで、二人で近くのレストランで昼食を食べながら恭が口を開く。

「ノープランが過ぎてどこ行くか決めてないんだけど、ゆりっぺ行きたいとこある?」
「うーん……あ、プラネタリウム行きたい! 何か最近のプラネタリウムのペアシートすごい豪華なんだって」
「へー! ……寝ても怒らない?」
「怒らない怒らない。その後ドライブで海とか」
「ベタな感じだー。おっけおっけ」

 ぶんちゃーん、と当たり前のように『分体』に候補先を探してもらっているのを見ていると、何だか懐かしいな、という気持ちになる。付き合うことになってから憂生が生まれるまでの間は、こうして休みが合う日は二人でよく出掛けていた。二人でいられたらどこでもいいよ、という希望に恭はうんうんと頷いて、それでも決して遊園地やテーマパークに行こうとは言わなかった。今年の春先にようやっと律と桜も誘ってという形では実現したが、やはり二人で行く場所としては、この先も外していくことになるのかもしれない。
 訪れたプラネタリウムではペアシートで二人寝転がって見る、という形で、案の定途中から恭は寝ていた。それでもぎゅうと憂凜の手を握りしめてくれていて、その温かさに安心しながらプラネタリウムを眺めて。終わった後に起こせば散々謝られたが、気にしなくていいと笑った。元々昨晩帰ってくるのが遅かったのに、いつも通りにトレーニングもしていたのだ。ゆっくり休めたなら、それはそれでよかったと思える。
 車に戻って、恭の運転で一路海を目指す。車の中では薄い音でラジオが流れていた。とりとめのない会話をしながら辿り着いた隣県の海が見える展望台にあまり人気はなかった。向こう側に見える海にはちらほらと人がいるのが伺える。

「おー。サーフィンかな」
「みたいだねー。恭ちゃんやったことある?」
「俺泳げねー……海こわい……」
「そうだった」

 陸上以外はからきしだ、と昔からよく言っていた。展望台の柵に身を預けて海を眺める恭の隣に立つ。数秒の沈黙に、風の音が吹き抜けていく。不意に恭がすう、と息を吸う音が聞こえて、反射的に体がびくりと震えた。それに気づいたのか気づいていないのか、恭が柵に身を預けたまま憂凛の方へと視線を向けて。

「――あのさ、聞きたいんだけど、」
「……何?」

「ゆりっぺ、どうしたら俺に我儘言ってくれる?」

「……へ」

 何を言われるのだろうとは思っていたが、考えてもいなかった言葉が耳に届いて憂凜はぱちぱちと目を瞬かせた。何に悩んでいるのか聞かれるのか、或いはこの間の件についての話をされるのか――程度しか予想が立っていなかったのもあるが、それにしても、だ。
 上手く言葉を返せないでいると、恭は笑う。柔らかに、穏やかに。

「俺多分ずっと、無意識に考えないようにしてて。んでまあこの間の件で色んなことで一気に頭ん中いっぱいになっちゃって、ちょっと時間ももらってるしひとつひとつゆっくり片づけるかー、ってしてたんだけどさ」
「……うん」
「律さんと話し終わったから、次ゆりっぺかなーって」
「……茅嶋さんとは、何を話したの?」
「ん? 俺弱くて律さんに迷惑掛けてばっかじゃないすかー、って聞いた。そしたら『迷惑だと思ってたら一緒に仕事してない』って一言ばっさり言われた」
「茅嶋さんらしいな……」

 律は仕事に関してはシビアだ。元々自身で口にしているように「一人で仕事をする」というやり方をしていたから、というのもあるのだろう。実際律は以前まだ一緒に仕事をしていなかった頃、恭をパートナーとする約束を一度破棄したこともある。仕事に対するスタンスがはっきりしている分、恭にとっても受け入れやすい返答だったのだろう。

「……私、恭ちゃんに我儘言ってるよ?」
「ん-ん、ずっと遠慮してんなーって思ってるよ、俺は」
「そんなこと……」
「例えば今松崎先輩がいたら、ゆりっぺはきっと松崎先輩に色んなこと言ってる。俺のことも、ういういのことも」
「……それは」

 すぐに否定ができなかったのは、そうするであろう自分が想像できてしまったから。
 我儘を言っていない訳ではない。日常を『黄昏の女王アリス』に助けてもらっているのも憂凛の我儘であり、恭が自分がいない代わりにと思ってくれる気遣いだ。それでも渚がいれば、もっと違うことを彼に言っていただろうことは簡単に想像がつくし、嫌そうな顔をして文句を言いながらも話を聞いてくれたであろう渚のことも想像がつく。

「俺馬鹿だからさー、どう言えば上手く伝わるのか分かんないんだけど。例えばそれもそうだし、あと俺が手伝えない律さんの書類仕事だって、松崎先輩ならできただろうし。俺じゃなくてあの人が律さんの隣にいた方がよかったんじゃね? とか思うことだってあるし」
「そんなこと」
「うん、そんなことないと思う。大体松崎先輩はもういないから考えるだけどうしようもないことじゃんか。――俺が殺したんだから」
「恭ちゃん」
「誰が何言ってくれても、松崎先輩のことは俺に責任がある、この先一生」

 有無を言わせないはっきりとした口調で。真剣な表情で言い切った恭は、そのまま視線を海へと向けた。
 あの事件は仕組まれたものだ。恭の心を壊すための道具にされた渚と、それをどうすることもできなかった恭と。恭が渚を『殺した』あのとき、渚は既に死んでいる、ただの『人形』だった。それでも本当にもう一歩のところまで恭の心を壊したそれは、いつまでも根深く恭の中に遺り続けている。

「あの人がいたらどうしたかなって、最近よく考える。考えて、俺頑張んなきゃなーって思う」
「……恭ちゃんはいっつも、頑張ってるよ」
「そっかな。俺今めっちゃ松崎先輩に怒られる自信ある」
「なぎちゃんそんなに怒るかなあ……」
「あはは。まあでもだからさ、……うーん。どう言ったらいいのかな。俺はもう松崎先輩と話せないから想像しかできないけど」
「うん」
「俺は今こうして生きてるから……、うん、だから、ゆりっぺにちゃんと話してほしいな、って、そう思ってる」

 この話を憂凛にするまでに、恭はどれほど考えたのだろうか。
 元々、恭も憂凜もあの頃の話をすることは避けている。渚の話も、二人でいるときにすることは少ない。それはお互いにとって大きな傷の記憶で、話していても楽しい話ではないからだ。人を殺した話、或いは人を死なせた話。
 憂凛が殺してしまったのも、死なせてしまったのも、目の前にいる恭だ。彼が今生きてくれているのは本当に奇跡のようなもので、或いは小夜乃の尽力のお陰で、彼女がいなければ今恭が此処にいることはない。

「……俺と一緒にいるの、ゆりっぺに負担に感じてほしくないっつーか……うーん、難しいな……俺に悪いことしたから、っていう気持ち持っててほしくないっつーか、何かそんなことが言いたい……?」
「……それは」
「あ、いや、無理なのは分かってて! 律さんでさえたまに言うから! じゃあ、ゆりっぺってもっとしんどいよなってそれくらいのことは俺にも分かっててさ? でもそう、あのー……ゆりっぺに、俺といるんじゃなかったなーとか、そういうのを考えてほしくなくて……うーん……」
「あ……」
「俺は生きてる、それでいいじゃん、っていうわけにいかないってことは分かってる。でも、確かにゆりっぺは俺にひどいことしたかもしれないけど、俺はそれ以上にゆりっぺに助けられて生きてるって思ってるから、それを分かっててほしくて、だから俺はゆりっぺに遠慮とか俺に悪いとか言う資格ないとか、そんなこと思わずに我儘言ってくれていいんだよーって思ってて、今日はそういう話したいなって思ってデートのお誘いしました」

 言葉と共に握られた右手は、紡がれた言葉と同じ優しさが籠っていた。