Adnis Blue - 01

 目が覚めると恭がいないのはいつものことだ。憂生が生まれてからは別々の部屋で寝ているということもあるが、ルーティンとして早朝トレーニングで外に出る恭は、いつも憂凛と憂生を起こさないように細心の注意を払ってくれている。憂凛が起きる頃には恭は外でまだトレーニングをしているか、帰ってきてシャワーを浴びているのかどちらか、ということが多い。だがこのところ、恭のトレーニングの時間は短くなっているように思う。
 事の発端は、先日恭の身に起きた事件のことだ。何者かに狙われた結果『分体』の能力がよくない方向に働いてしまい、恭は『彼岸』の世界に閉じ込められ、2日間意識が戻らなかった。その『彼岸』の世界の中で心の奥の深い傷を表出させられ、忘却させられていた記憶を思い出すことになった恭は、現状本調子ではないという判断がなされた。結果、律と桜が気を使ってくれて、落ち着くまでは自宅から通える範囲の仕事をこなす方向で仕事を調整してくれている。調子が悪いということはそのまま命を落とすことに繋がりかねないので、妥当な判断ではあるのだろう。
 実際、このところ恭は少しいつもと様子が違う。感情がすぐに顔に出るので隠し事も嘘も下手で分かりやすい恭は、今回それが煙草の本数という形で見て取れる。普段は吸っても1日1本、全く吸わない日も多い彼が、一週間に2、3箱のペースで吸っているというのは明らかに多い。煙草を吸いながら何か考えているのは明白で、しかしその内容を聞いたことはない。
 目が覚めて、まずは憂生の様子を確認する。昨夜は夜中に一度起きたからか、憂生はまだよく眠っていた。それを確認してから布団を抜け出して恭の姿を探せば、ベランダに恭の姿を見つける。窓の外、ベランダの柵に寄りかかっている恭の背中姿。タオルが首に掛かっているので、トレーニングから帰ってきてシャワーを浴びた後なのだろう。煙草を吸っていることがすぐに想像できてしまうのは、恭はベランダでしか煙草を吸わないからだ。煙草を吸い始めた頃からそうしているのが日常になっていることに加えて、憂凛と憂生のことを気遣っていることもあるのだろうとは思っている。
 ベランダに近寄って、こんこん、と窓ガラスを叩く。びく、と肩を震わせた恭がこちらを振り向いて、ふにゃりとその表情を和らげた。手には随分と短くなった煙草。灰皿に落とされたそれを見てから、憂凛は窓を開ける。

「おはよ、恭ちゃん」
「おはよー、ゆりっぺ。昨日寝れた?」
「結構寝た方かなー。恭ちゃん、トレーニング終わったの?」
「今日は神社までジョギングしてー、龍神様に挨拶してー、帰ってきた」
「そっか」

 いつも通りのコースだが、いつもよりトレーニングの量は減っているのか。それとも家を出る時間が少し早くなっているのか、或いは神社にいる友人たちとあまり会話をしていないのか。気にはなるが上手く言葉にならない。
 ――どうしたらいいのか、憂凛には分からない。
 こんなときに、力になりたいのに。傍にいるのに。支えてあげたいのに。どうしたらいいのか、全く分からなくなってしまう。その理由に何となく気が付いていて、目を逸らしている自分がいる。

 このまま恭が、どこにも行かなければいいのに。

 先の事件を引き起こすきっかけとなった『分体』の気持ちが、憂凛にはよく分かる。恭がもう戦わずに済めばいい。一歩先に常に死が歩いているような世界から引き離してしまいたい。このまま恭が本調子に戻らなければ、律は無理に恭と仕事をするようなことはしないだろう。そうすればずっと一緒に居られる。無事に帰ってくるかどうか心配して怯える必要もない。
 しかし、憂凛は知っている。恭がどれほどの努力を重ねて、律のパートナーとして共に動く未来を掴んだか。苦しんで、苦しんで、それでも今の仕事をしていくことを選んだ。それは本当に血の滲むような努力の結果、彼が正当に手に入れたものだ。憂凛がこうして恭と共に生きている方が、イレギュラーの奇跡のようなもので。
 だから、自分に口出しする権利はない。我儘は言えない。――大体一度恭を殺した身で、彼に何が言えるというのか。
 ふ、と息を吐いた憂凛に、ぱちぱちと目を瞬かせて恭が首を傾げる。はっとして顔を上げて、憂凛は笑った。上手く笑えている自信はないままに。

「朝ごはんにしよ! 今日はパンとサラダでもいい?」
「もち! ういういまだ起きないかな」
「そろそろぐずる時間だとは思うんだけどねえ」

 ふわりと恭から感じる煙草のにおいと共に、この感情の何もかもが風と共に消え失せればいいのに。
 ぐっと気持ちを飲み込んで。後ろから感じる恭の心配そうな視線には、気づかないふりをした。


『……お前いつか、自分で自分の首絞めるぞ、馬鹿狐』

 ひどく嫌そうな顔をした幼馴染にそんなことを言われたのは、まだ高校生だった頃――『あの』事件が起きる、まだもう少し前だったように記憶している。一体何の話をしていたときのことだったのかは思い出せないが、何かをした幼馴染にそんなのはおかしいと、間違っていると責め立てた後のことだっただろう。苦し紛れに呟かれた言葉だったから、言い負かされた負け惜しみだろうとそのときは思っていて。けれど『あの』事件が起きて、憂凜はその言葉の意味を知った。
 自分は半分『狐』だから。ヒトと共にヒトとして生きるために、間違ったことはしてはいけない。正しく清廉に生きていくべきで、間違っていることは正していくべきだ。
 憂凛の矜持のようなものだったその思いは、自分が『正しい』ものではなくなった瞬間に崩れ落ちていってしまった。崩れ落ちたそれを必死でかき集めると、今度は耳元で「お前は間違ったことをしたくせに」と囁く声がする。うるさい、うるさいと何度振り払っても全く振り払うことのできないそれは、呪いのように憂凛の中に降り積もる。
 正しいだけでは人は生きていけない。
 正しくなければ人として生きていけない。
 しかし自分は既に、人の道を踏み外してしまった。
 何もかもが怖くなって、何もかもを遠ざけた。周囲が皆心配してくれているのを分かっていて、分かってるからこそ自分はその心配に値するいきものではないと考えてしまう。何も考えたくてもぐるぐると回り続ける思考を止めるすべもなく、自分がどうすればいいのかも分からずに閉じこもっていく心を保たせてくれたのは、彼が父親経由で自分に預けてくれたチェシャ猫のキーホルダー。『黄昏の女王アリス』の存在はあの頃の憂凛にはとても大きいもので、彼女のお陰で徐々に平静を保てるようになっていった。
 一度人の道を踏み外してしまった。だから、この先もヒトとして生きるのであれば己を律しなければならない。
 二度と過ちを起こさない為に。二度と間違うことのないように。
 そう心に決めることができてからは、随分と落ち着いた。しかし飲み込まれる恐怖心に抗うすべが分からずに、それに対する対抗策として憂凜は自身に『狐としての力を振るわない』という制約を課した。それには『黄昏の女王アリス』が惜しみなく協力してくれたお陰で、それから数年は随分と平穏な日々を過ごさせてもらったと思っている。
 色々なことが起きて、『狐』の力を再び使うようになって。恭と再会して。あっという間に時は過ぎ去って、今再びこうして恭と過ごしているのは夢ではないかと、何度も考えたことがある。自分にとって都合の良すぎる、幸せな夢。しかし何度頬を抓ってもこれは現実で、そして憂凜は心の中でいつも怯えている。いくら蓋をしたところで、かたかたと音を鳴らして開こうとする暗い沼。
 失いたくない。失いたくない。ずっとこのままで。ずっとこの平穏のままで。誰も、誰も、邪魔をしないで。
 ――邪魔をされたら、自分がどうなってしまうか、分からないから。
 二度と同じ過ちを繰り返さないと心に決めても、いつ何が起こるか分からないのは世の常だ。『彼岸』と深く関わり続ける自分たちは、尚更。心の弱さは『彼岸』の格好の餌食になってしまうから。
 だから、飲み込まれてはいけない。
 そのために、何ができるのだろう。
 いつも黙って背中を支えてくれていた幼馴染は、もう居ない。そう思った瞬間に足元が崩れそうで、それでもまっすぐに前を見なければ。人として正しく在らなければ。
 そうでなければ、自分に恭の隣にいる資格はなくなってしまうから。


 律と打ち合わせがあるという恭を見送って、憂生と2人。愛娘の世話をしながら家のことをしていると、あっという間に時間は過ぎ去っていく。手が回らないときは『黄昏の女王アリス』が子守を手伝ってくれるので、本当に感謝してもしきれない。

「ごめんねえアリスちゃん、いつもありがとう」
「別に私は構わないけれど、私が子守するのって教育上大丈夫なの?」
「うちはいいの!」

 笑う憂凛に、『黄昏の女王アリス』は呆れたように肩を竦める。『彼岸』であり『怨霊』の類に分類される『黄昏の女王アリス』に子供の世話を任せるのは確かにどうかしていると言われてもおかしくないことではあり、いい顔をされないことは重々承知している。それでも憂凛にとって『黄昏の女王アリス』は全幅の信頼をおける存在で、『黄昏の女王アリス』が恭といる限りはその信頼を裏切るようなことをしないだろうと思っている。彼女に裏切るつもりがあるならば、もっと早い段階で裏切られていただろうから。
 どうしても恭は家にいないことが多い。気を使ってスケジュールを調整してくれていることも知ってはいるが、それにも限度がある。元々世界各地を飛び回ることになることは理解していたし、家にいるときは恭も積極的に子育てに参加してくれる。ただやはりいないときに一人で子育てというのは大変で、『黄昏の女王アリス』が手を貸してくれるのは本当に助かるのだ。
 散々遊んだ後、お昼寝タイムに入ってしまった憂生の頭をそっと撫でる。女の子は父親に似ると言うが、確かに憂生の顔立ちは恭によく似ていると思う。将来はどんな女の子になって、どんな道を選んでいくのだろうか。

「……憂凜、最近少し顔色が悪いように見えるけれど、大丈夫?」
「え、そうかな? 元気だよ?」
「私の前で嘘つかなくてもいいでしょう」
「……んん、」

 分かっている――『黄昏の女王アリス』は憂凛が精神的に一番つらかった時期にずっと一緒にいてくれたのだから、メンタル面の不調を隠せる相手ではない。何より、薄々恭にも気づかれていることは分かっている。自分がこんな状態ではいけないと思えば思うほど、どうにも思考が空回りする。

「この間のこと、まだ気になってるでしょう。今の恭くんの様子も」
「……うん、そう」

 恭が昏睡状態に陥っていたあの2日間、憂凜にできることは何もなかった。不眠不休で魔術を組んであれこれと試行錯誤している律を見ていることしかできなかった。そして、梓人が来てくれたお陰で『分体』を通じて恭が置かれている状況を確認することはできたものの、だからと言って何ができる訳でもなく。
 専門外なのだから仕方がないと言われればそれはそうだ。憂凛が『半人』としてできることは戦うことだけで、ああいった『彼岸』の事象に干渉できるようなすべはない。信じて待つことしかできない――それはいつも同じだが、手の届くところに恭がいるのに何もできないというのはあまりにも歯がゆくて。
 そして何より、梓人の手の届かなかった部分。『分体』から離れてしまって見えなくなった部分、巧都を通じて『視』ていた律が、後で少しだけ教えてくれた部分。恭の心の傷と、普段は無自覚に押し殺している弱い部分の表出。

「……恭ちゃんを支えてあげるのは私の役目! って、思ったんだけどね。あのときは」
「そうね」
「……でも、一番最初に恭ちゃんを傷つけたのは、私だから」
「……それは、」
「小夜ちゃんや乙仲くんが一番最初に恭ちゃんの記憶を弄ったときって、私との件が起点だったでしょう? だから恭ちゃんは私のことを忘れてたし、あのとき。……じゃあそれがなければ小夜ちゃんはいなくならなかったのかなとか。そもそもあのことがなければ、なぎちゃんがあんなことにはならなかったのかなとか。じゃあ私のせいだよねって考えちゃって……」

 いっそ自分がいなければ、恭はそこまで大きな心の傷を負うこともなかったのではないだろうか。
 どうしても、そんなことを考えてしまう。恭を支えていこうと思うと、なら自分がいなければよかったのだと思う考えが顔を出して邪魔をする。自分のせいで恭を苦しめている。
 じっと憂凛を見る『黄昏の女王アリス』の目を見返せずに視線を落とす。聞こえたのは深い溜め息。

「憂凛、今からひどいことを言うわ」
「え」
「あなた、何で恭くんが悩んでいるのか本当に気付いてないの? というか、何より――どうしてそんなにあの子を一番傷つけるようなことを考えているのか、私には本当に分からないのだけれど?」

 何を言われたのかが分からない、というよりは、その言葉が指し示しているものの意味を知りたくないといった方が正しいのだろう。言葉に反してひどく心配そうな表情をしている『黄昏の女王アリス』に、今の自分の姿はどう映っているのだろうか。

「……傷つけることは分かってるから、口にはしないの」
「憂凛、」
「分かってる。分かってるんだけど……」

 誰かがいなくなることを、恭は絶対に望まない。だから、自分はいない方がいいなどという考えは、そう考える時点で間違えているのだ。そんなことは、ちゃんと分かっている。しかし、憂凛には恭が何を悩んでいるのかは、分からない――考えないようにしているのかもしれないし、自分の考えが邪魔をしている可能性も大いにある。
 三条 小夜乃のことを思い出す。
 憂凛自身、彼女には返しきれない恩がある。『ディアボロス』であった彼女は精神的な部分を操る力を持つ。本来悪用されることの多いそれを、小夜乃は憂凛を落ち着かせるために多用してくれていた。渚や琴葉を傷つけることを恐れて距離を置きがちだったあの頃の憂凛にとっては、『黄昏の女王アリス』同様恩人だ。
 そして彼女は、憂凛が恭の隣を離れてからずっと恭の傍にいた。そして憂凛と恭が再会し、入れ替わるように彼女は姿を消すことになり、そして恭の記憶から消えていった。
 もしかしたら今、自分の立ち位置にいたのは小夜乃だったのではないだろうか。時々そんなことを考えることがある。小夜乃にそんな気は全くなかった、ということを知ってはいるのだが、どうしてもその考えが頭をもたげてしまうのは、嫉妬に近しい感情なのかもしれない。何より小夜乃は本当に陰に日向に恭のことを支えていた上、二度も恭の命を救っている。その2回とも、恭に命を落とさせてしまったのは憂凛の責任だ。一度は憂凛自身が。一度は憂凜を守って。
 自分とは真逆で、大違いで。恭が彼女のことを忘れたと聞いたとき、心のどこかでほっとした自分がいたのは事実だ。
 ――きたない。このかんじょうはただしくない。

「……自分の汚い部分を自覚するのって、すごいしんどいね」
「……綺麗な人間なんていないでしょう」
「私にとっては、いつだって恭ちゃんはきらきらしてて綺麗だよ」

 傷ついても苦しんでも、恭は諦めない。真っ直ぐに前を見据えて、どうにか戦おうと、どうにか守ろうと、必死で抗い続ける。その姿は憂凛にはとても高潔に映る。彼が『ヒーロー』たる所以を――『セイバー』まで上り詰めた所以を、まざまざと見せつけられる。そう、と呟く『黄昏の女王アリス』の声は、どこか同意のようにも聞こえた。

「憂凛が綺麗だろうと汚かろうと、恭くんには関係ないんじゃないかと思うのだけれど。あの子のことだから、憂凜は憂凛だって首傾げるでしょうし」
「そうー……恭ちゃんがそういう人だっていうのも、ちゃんと分かってるのにね。何でこんなに考えちゃうんだろう」
「恭くんに嫌われないか、不安なの?」
「多分そうなのかな……、んん、分かんない」
「それ、ちゃんと恭くんに話した方がいいと思うわよ。どうせあの子、憂凛のこと心配しすぎて悩んでるんだから」

 ベランダで煙草を吸っている恭の姿を思い出す。いつもよりも多い本数の煙草。ずっと何かを考えている恭は、しかしその内容を憂凛には言わないまま――そして憂凜も聞かないまま、何となく日々を過ごしている。両者の間にいる『黄昏の女王アリス』は、もしかしたら何か恭に聞いているのだろうか。或いは見ていて気付くこともあるのだろうか。

「……話してどうにかなると思う?」
「話さないことには分からないんじゃないの。一緒にいるのだから、きちんと話せばいいのよ。あの頃とは違うのだし」
「うう……アリスちゃんがド正論投げてくる……」
「こういうのは憂凛お得意じゃなかったかしら。……どちらにしろ、憂凜、今あの子がずっと吸ってる煙草の銘柄くらい見た方がいいわよ」
「へ」

 突然の言葉に、憂凜は目を上げた。困ったように優しく笑う『黄昏の女王アリス』と目が合う。
 恭が普段吸っているのは、彼の姉がかつて吸っていたのだというメンソールの煙草だ。しかし、言われてみれば今朝恭と話したとき、メンソールのにおいはしなかった。――違う煙草。そういえばあのとき、恭の手の中にあった煙草はいつも持っている緑色の箱ではなく、青い色の箱だった。それは、かつて幼馴染が吸っていたもの。恭が幼馴染の命日が近くなると吸い始める、彼が吸うもう一つの。

「あ……」
「大丈夫。憂凛がどんな人間だったって幻滅もしなければ何でも受け入れてくれるわよ、恭くんは。――あの子、本当に馬鹿なんだから」