Unknown Error - 07
が、と後ろから首の辺りを掴まれて、そのまま思い切り引っ張られた。抵抗できずにそのまま引っ張られた瞬間、ぱん、と目の前が開けるように光が戻る。礼拝堂まで戻ってきたのだ、ということに気づくまで数秒。ぱっと手が離されて床にへたり込むと、顔を覗き込んできたのは巧都だった。
「たく、とさん、」
「ひっでー顔しちゃってまあ。よく頑張ったな、弟クン」
「おれ……」
「ちゃんと助けてって言えたからなー、特別大サービスで手伝ってやる。――戦えるか?」
す、と真剣な表情になる巧都の後ろに蠢いている『何か』。腕で顔を拭って、涙を拭いて、吐きそうな感覚を堪えながらそれを直視する。黒いもやのように見えるそれの中央、人の形をしているのは見えるが、それが『誰』なのか『何』なのかはよく分からない。だが恐らくそれが、恭をここに引き摺りこんだものなのだろう。
色々な感情で頭はぐちゃぐちゃで、泣き過ぎているのか体は熱くて、頭はぼおっとしている。とても戦えるようなコンディションではない。それでも、あれをどうにかしなければここから帰れないのであれば。
「……やる、」
「よし。いい子いい子」
にい、と笑った巧都が立ち上がって、背後の『何か』と向き直る。動いていないと思っていたが、恐らく事前に巧都が何らかの術を施していたのだろう。動こうとしているが、一歩たりとも動けてはいない。
『……恭、ほんまに大丈夫か』
「……だいじょーぶ、ではないけど」
深呼吸。一旦余計なことは頭の中から追い出して。意識を集中すれば、『変身』が問題なく完了する。
「ここで逃げたら、一生後悔する」
『ほんま、お前は……』
呆れるような『分体』の声に、恭は笑う。後悔はしたくない。苦しくても辛くても、それだけは。これ以上『何もできなかった』という後悔を積み重ねたくない。できることはやったのだと、そう言える自分でいなければ。
そうでなければ、顔向けができない。『また』怒られるのは、御免だ。
「やっしーの出力って今どんなもんだったかなー」
「えー巧都さんのフルパワーで助けてくれたりしないんすか」
「一瞬でカタつくぞんなもん。そこまでサービスできねえよ」
「あー……」
『これやから格の高い奴は』
「お前そればっかだな」
けらけらと笑う巧都の腕に、ばちり、と雷撃が走る。見慣れた律がよく使うそれに、不思議と心が落ち着いた。
やり直したいことは山のようにある。あのときああしていれば、こうしていれば。しかし結果として『できなかった』のだから――やり直すことはできないのだから、抱えて生きていくしかないのだ。見たくもない感情も、知りたくもない感情も、抱えて、背負って。
何もかも失ったわけではないから、まだ、立てる。
本末転倒でも、何の意味もなくても、人に笑われるかもしれなくても、愚直にそうして生きてきたから。それは、これからも変わらない。
「外すぞ」
「……うす!」
ぱん、と空気の弾ける音。途端動き出したそれに、恭はしっかりと狙いを定めて。
スイッチが切り替わったかのような、妙な感覚だった。
「……あれ」
視界に入ったのは見慣れた自宅の天井。ベッドで寝ているらしいということに気づくまで数秒。ついさっきまで戦っていたはずで、じゃああれは夢だったのかと一瞬考えて。
「おはよう」
「……え? 何!?」
聞こえた律の低い声に跳ね起きる。ベッドの隣、腕を組んで恭に視線を向けている律は険しい表情をしていて、怒っているらしいことはすぐに分かった。となれば、先ほどまでの出来事は夢ではなく。
はあ、と大きな溜め息を吐いて、無言で恭の頭を撫でると律はそのまま立ち上がって出て行ってしまう。後を追いかけようとした恭を引き止める手は、ベッドの横から。
「茅嶋さん……全く寝ずに作業してたので……、とりあえず寝かせてあげてくださいね……」
「……梓人くん!? ファイちゃんも」
『おはようございます! ご無事のようで何よりです』
床に座り込んでノートパソコンを叩いていた男が一人。情報屋を営んでいる『神子』、永瀬 梓人とその梓人に憑いている『彼岸』である通称『ファイ』がノートパソコンの画面上に浮かんでいる。何故彼らがここに来ているのかが分からずに首を傾げた恭に、梓人はゆるりと笑った。
「ちなみに……茅嶋さんは昨日……『この状況で普通に生活して寝るってどういう神経してるのあの馬鹿』と……本気で怒ってました……」
「……あああああ……」
そう言われて、やはり夢ではなかったのだということを理解する。恭があちらにいる間、体は意識を失った状態で眠り続けていたのだろうか。あれこれと手を尽くしてくれていたことは想像に難くない。梓人がいるのはおそらく、『分体』の関係だろう。巧都が言っていた『分体』と『本体』が一瞬繋がってしまったということが事実であるならば、現在の『分体』の主である『ファイ』との関係も何かしらおかしくなってしまっている筈で、連絡が取れない状態だったのでここまで来てくれた、ということだ。
「まじでごめん……ご迷惑おかけしました……」
「俺はまあ……、そのまま『分体』を通じて、モニタリングしてただけなので……。……ファイ、接続修正できた……?」
『オールクリア。元通りー、お疲れ様! こんな形で切られちゃうの、今後の反省点にしないといけないねえ』
「その辺りは……組み直した方がいいね……。帰ってから考えよう……」
「もにたりんぐ」
「君に……何が起きたかは……俺も、茅嶋さんも、……あと、憂凛さんも……把握していますよ……」
「わあ」
「茅嶋さんは……俺より視てると思います……、俺は『分体』がいないところは……分かりませんでしたし……茅嶋さんは……別で巧都さんと繋がって視てたみたいなので……」
「……え。待ってあの人そんなことして体、」
「まー大丈夫なわけねえわなあ。愛されてんねえ弟クン」
「うわびっくりした!?」
いつの間にかベッドに座っていた巧都がけらけらと笑う。ばくばくと音を立てる胸を押さえつつ、ひとつ深呼吸。そのまま思わず笑ってしまったのは、どうしようもなく嬉しかったからだ。
一人で戦っていると思っていた。けれどそんなことはなく、皆助けようと必死に動いてくれていたのだ。申し訳ないと思う反面、安心してしまう。
――ああ、だからまだ、戦える。いろんな感情を抱えて、背負って、ただ愚直に、真っ直ぐに立っていられる。
「梓人くん、ゆりっぺは?」
「憂凛さんは……今は茅嶋さんのおうちですね……。憂生ちゃんの面倒を……見てあげなきゃいけないんだから……心配だろうけどこちらは任せてと茅嶋さんが……」
「そか。じゃあ電話しよ。あれ今何時だちょっと待って」
「……ふふ、いえ、連絡してあげてください……待ってるでしょうから……」
「うん」
律とも話さなければならないことは多いが、ひとまず休息が必要な状況だということは分かるから。巧都が目を細めて笑う隣で、恭はスマートフォンを手に取ったのだった。
――その後、聞いた話によると。
恭の異変に真っ先に気が付いたのは憂凛だった。たまたま憂生の世話をするのに早朝に起きていた彼女が、いつもの早朝トレーニングの時間になっても恭が起きてこないことに疑問を持ったのが最初。起こしに行っても全く起きる気配がなく、帰国翌日で疲れているのかと思いながらも『分体』にアラームを鳴らしてもらおうと呼びかけても反応がなく、そこですぐに「おかしい」と判断して律に連絡が飛んだ。徹夜で仕事を片付けていたらしい律がすっとんできて、状況を見た巧都が面白そうだからと『捩じ込み』をし、そこから巧都を通じて律が状況を把握。その頃に『分体』と『ファイ』のリンクが切れたことで訪問してきた梓人を巻き込んで全員で状況を共有しつつ、事態の解決に動いていた――という状況だったらしい。あの世界の憂凛やモニカ、それに琴葉といった存在は相当律の魔術の影響を受けており、だからこそ彼女たちは留まらせようとするのではなく、出ようとする恭の動きに協力してくれたのだ。
恭の電話で帰ってきた憂凛には散々泣かれ、数時間気絶同然に寝た後の律には散々怒られた。その間延々と『分体』が『黄昏の女王』に怒られていたのは聞かなかったことにした。白いもやもやがぐったりしていたので、相当やりこめられたのだろうとは思っている。
「ま、結局のところどこぞの馬鹿が『彼岸』も使ってぶんちゃんに悪戯して、恭くんに呪いのような術をかけたっていうのが真相かな。術返った相手がどうなったか俺の知ったこっちゃない、廃人にでも何でもなってろ」
「まだ怒ってるぅ……」
「不眠不休でひたすらああでもないこうでもないって魔術組んでるこっちの気も知らずにすやすや寝てる人いたからさあ」
「ごめんなさいって! ほんとに! それは! ごめんなさい!」
「まあでも、自力で持ち直すと思わなかったな。強くなったね、恭くん」
「そうかなあ。俺は多分強くなったとかじゃないすよ」
――ただ、かけがえない、守りたいものが増えたから。
泣かせたくない。一人にしたくない。成長を見守りたい。生きていたい。そういう気持ちが、自分の中にあるから。
誰もいなくなって欲しくないという思いは、やはり強迫観念のように恭の中にこびりついているし、それはこの先も変わることはないだろう。もう二度と、もう二度と、もう二度と。どれだけ強く思い願ったところで失うときは失ってしまうことも知っている。それでも、願わずにはいられない。その為に努力することも、止めたくはない。自分の弱さを言い訳に逃げてしまったら、目を閉じてしまったら、守りたいものが守れなくなる。
「……、そっか」
「意地で頑張ってるだけっすけど。……でもちゃんと自分も大事にしないと、小夜ちゃんに怒られるっすね」
「そうだよ。……、ごめんね、三条さんのこと黙ってて」
「ほんとに! でも、それもあるのかな。……俺、ちゃんとしなきゃ、って。小夜ちゃんに助けてもらった命、ちゃんと大事に生きなきゃ」
彼女に助けてもらえていなければ、今の自分はいないのだから。
忘れさせなければいけない、と思わせたことを悔いても、どうすることもできない。あるのは忘れさせられていたという事実だけだ。そうしていなければ、確かにあの頃の恭はどうなっていたか分からない程不安定だった自覚はある。だからこそ――思い出したからこそ、もっとしっかりしなければと、自分に思う。
この状況を作った者の目論見としては、忘れている記憶を思い出させることで恭を精神的に追い込みたかったのであろうことは、想像に難くない。実際今も恭の中では多くの感情が渦を巻いたままで、その整理には少し時間が掛かるだろう。ひとつずつ向き合って、噛み砕いて、背負っていくための妥協点を見つけていかなければならない。
「……律さん、俺、落ち着いたらひびちゃんに会いに行こうと思って」
「……そっか」
「うん。……小夜ちゃんの思い出話、できるといいな」
小さく呟いた恭の言葉に、がんばれ、と小さく笑った律が優しくて。
――この人が生きている世界が現実でよかった、と、心の底から思った。
乙仲 響は現在、芸能事務所『エンブレイス』で社長秘書として働いている。
生きてきた理由を踏みにじられる結果となった後――怪我の療養が終わった後は、やることもなかったので鴉の『化生』リノ=プリドの小間使いとして彼の手伝いをしていた。この先もずっとこんな感じだろうかと思っていた矢先、連絡があったのは同じ施設で育った旧友から。響にとっては因縁のある芸能事務所の社長を引き継いだのだという旧友は、人員不足に困窮していて良ければ手伝って欲しいと響に相談してきたのだ。
「……どう思いますリノさん。『エンブレイス』の立て直しなら絶対茅嶋さん関わってるアレでしょ知ってます?」
「あはは。じゃあ手伝えばいいんじゃないか、君の罪滅ぼしに」
行っておいで、とリノににこにこと送り出されて――どう考えても面白がられていたのだが――響は社長秘書の仕事を引き受けた。そこが繋がってるとは思わなかった、と笑った律には、頑張ってね、と言われただけで拍子抜けした。気にしていないというわけではなく、それとこれとは話が別だということなのだろうと響は思っている。
社長秘書という扱いとはいえ、やっていることは小間使いと変わらない。スケジュール管理や調整、そして隙あらばすぐに『彼女』のもとに行こうとする旧友の首を掴んで仕事をさせるのが仕事、といったところだ。響が来るまでは所属タレントがその役割をしていたというのだから、人手不足にも程がある。
「失礼しま……、……あれ、茅嶋さんいらっしゃったんですか」
「久しぶり、響くん」
「あ! ひーくん聞いて! 御当主様ひどいんだよ僕に用事ないのに来たんだって! 今日はひーくんに会いに来たからお前は仕事しろっていうんだよ! ひどい! 僕も御当主様に話したいこと山ほどある!」
「うるさい仕事しろ惚気聞きに来たんじゃないんだよこっちは」
「ひどい! 仕事するぅ……」
「俺に会いに……ですか?」
ぴいぴいとデスクで喚く旧友は無視して、応接用のソファに座っている律に視線を向ける。そう、と笑った律に勧められて、響は対面のソファに腰を下ろした。話をしない間柄ではないが、こうして面と向かい合うと居心地の悪さが強い。
律のパートナーである恭を利用して、復讐を完遂させるつもりだった。
結局恨む相手を間違えていて、挙句本来恨むべき相手にいいように使われて、響のこれまでは全て無駄になった。恭を利用したことさえ、何の意味もなかった。恨まれて憎まれておかしくないのに、恭は響を恨まないし憎まない。そういう人間だと知っていたから、酷く苦しかった。だから、もう生きている意味もないのに生き続けているのは、響にとっては唯一の恭に対する贖罪で。
――けれどあれ以降。律と顔を合わせることはあっても、恭とは会っていない。恐らく恭の方が気を遣ってくれているのだろうことは想像に難くない。もう会わないと、響自身が恭に告げているから。
「ちょっと先日色々あって恭くんが三条さんのこと思い出したから、響くんにも報告しとこうと思って」
「え。……アイツ大丈夫なんすか」
「頑張ってるよ。転んでもただじゃ起きないから、恭くんのことはあんまり心配してない。でもまあ、しばらくは海外とか遠方行く仕事はしないことにしてる」
「恭が落ち着くまで、ってことですか?」
「そう。でも、俺が心配してるのは憂凛ちゃんの方」
「……あ」
ずきん、と思い出したように頭が痛んで、響は眉を寄せる。響が負った大怪我の半分は彼女の手によるものだ。目の前で恭を『殺された』憂凛がどうなったか、響は身をもって知っている。
三条 小夜乃のことを恭が思い出すということは、同時にそれに纏わる様々な出来事を恭が思い出したということだ。精神的に負荷がかかり状態が不安定になるのは目に見えている。その状態の恭があちこちに行くことになれば、待っている憂凛がいつも以上に心配して気に病んでしまう。その状態になってしまう憂凛を置いていくのは、恭にとっても良くない。
「……方々気を遣って大変ですね、茅嶋さん」
「あはは。まあ、恭くんが調子悪いと俺も色々困るからね。……で、まあ、恭くんが響くんに会いたそうだったから、一応言っておこうと思って」
――多分近々会いに来るよ。
その言葉に、ばくんと心臓が痛む。向こうは気にしていなくてもこちらは気にしているというのに、そういうことをすっ飛ばして踏み込んでくるのが柳川 恭という人間だ。そもそも気にしない恭の方がおかしいと思うのだが、恭にそういうことは良くも悪くも通じない。
「……どんな顔して会えと……っつか茅嶋さんそれは止めてくださいよ……」
「頑張れって言っちゃった」
「えええ……」
「俺は大概、恭くんに甘いからね。それにいい機会じゃないの、お互いに。ちゃんとした方がいい。俺と響くんはビジネスの関係だけど、恭くんと響くんはそうじゃないでしょ。友達なんだから」
「……友達じゃあないですよ、俺なんか。どう考えても」
「僕とやっくんは友達だから御当主様も友達でいい!?」
「友達じゃないから仕事しろ」
「何で!?」
わあわあと騒ぎ始めた旧友の相手をする律を眺めながら――さてどうしたものかと、響は溜め息を吐いた。