Unknown Error - 06
不意にどこかからええん、と子供が泣く声が聞こえた。辺りを見回したところで、真っ暗なその場所で子供の姿は見つけられない。それでも恐る恐る、声が聞こえる方へと足を踏み出してみる。
1歩、2歩、3歩。歩いてみたところで、視界は開けない。頼りになるのは泣き声が聞こえている自分の耳だけだ。方向は恐らく合っているだろう、と確信してから歩を早める。近づいてくる泣き声の主の姿は、未だ見えないまま。
「どこだよもー……!」
近づいているような気はするが、錯覚なのか。声の主は全く見つからない。一度足を止めて、深呼吸。困ったときは考え直すしかない。
そもそも、闇雲に探し回る意味がないかもしれない。この声の主が、憂凛が言っていたように恭自身だとするのなら。恭はここにいるのだから、探したところで見つかるものではないかもしれない。だとすれば、恭にできることは。
「……どうして泣いてるの?ちょっとおにーちゃんとお話ししませんか」
穏やかな声で。本当に子供に語り掛けるように、虚空に告げる。これで駄目ならば他の方法を考えなければならない、と思いながらも、他には思いつく気がしなかった。どこかから声が聞こえる気がするだけで、それが自分なら『ここ』にいるとしか考えられない。
ふ、と泣き声が止んで、一瞬視界が真っ白に染まる。視界を焼くかのような白に反射的に目を閉じて、瞼の裏、また暗くなったのを感じて目を開けば。
「……おにいちゃん、だれ?」
泣き腫らした顔をした小さな子供が、足元に座っていた。年齢は4、5歳程度だろうか。その子供に、恭は確かに見覚えがあった――家のアルバムで見たことがある。これは確かに、子供の頃の恭の姿だ。
さてどうしたものか、と思いながら、恭は視線を合わせる為にその場に屈み込む。それに合わせて子供の視線が動いたのを見ながら、涙の溜まる目尻に指先を伸ばして。掬い取った涙は、ぽとりと下に落ちて消えていく。
「おにーちゃんはねー、『ヒーロー』です。だから泣いてる子を見ると放っとけないのだ」
「ひーろー……?」
「そうだよー。何で泣いてたの? どっか痛い?」
じっと恭を見ていた目に、みるみる涙が溜まって。あ、と思った瞬間にはまた声を上げて泣き出してしまった。よしよし、と頭を撫でたところで泣き止む気配はない。しゃくりあげて泣いている子供が落ち着くまでは無理に聞き出さない方がいいだろう、と恭は隣に座り込む形になる。
「……った、の、」
「ん?」
「いなく……なっちゃった……」
「いなくなった? 誰が?」
「おねーちゃん、も、ともだち、も、みんな」
ひく、ひく、としゃくり上げながら、ようやっと子供から紡がれた言葉。ずきん、と胸の嫌なところが痛んで、恭はゆっくりと息を吐く。――皆いなくなった。それは確かに、恭が抱えるもの。
玲は知らなかったから、どうすることもできなかった。渚はこの手で。響に関しては、今もどういう関係だったのか分からないまま。小夜乃はいなくなった。そしてこの世界では、律もいない。失って、失って、その度に抱える虚はいつだって埋まらない。『誰か』は『誰か』の代わりにはならない。
「……いないの、寂しい?」
「さみしい……なんで、みんないなくなっちゃうの……?」
「ずっと一緒にいたかった?」
「うん……」
どうして守れなかったのだろう。どうして。何で。いくら問うても、その答えはきっと一生返ってこない。人は死んでしまう生き物だから仕方がないだなんて、まだ思えない。
「……そうだなー、何でいなくなっちゃうんだろな」
上手く答えは返せずに。笑顔がひきつったのは、気のせいだと思いたかった。
「いなくなっちゃうなら、あわなきゃ、よかった」
「寂しくなっちゃうから?」
「あわなきゃ、さみしく、なかった……」
ぽつり、ぽつり。子供が吐き出す言葉は、身に覚えのあるそれで。この子供が恭自身だという確信は、ますます強くなっていく。削ぎ取ろうとされている部分だろうか、それとも。どう反応するのが正しいのかが分からない。
出会わなければよかった。本当にそうだろうか。そう思ったことなどない、と否定するつもりはない。けれど、いなくなってしまった人たちに出会ったから、今の恭がある。
「でもじゃあ、ずっとひとりぼっちになっちゃうよ? それは寂しくない?」
「……わかんない」
「そっかあ」
「……おにいちゃんは、いなくなっちゃっても、だいじょうぶなの?」
「いやまあ大丈夫ではないな全然、それは」
なくしたものは多くても、出会いはある。
仕事であちらこちらと飛び回ればそれだけ多くの人と知り合うし、仲良くなることもある。もう二度と会うことがないかもしれなくても、そういった縁はずっと繋いできている。今のところはそれに後悔したことはない、と思っている。知り合う人が増えれば増えるほど、心が痛む出来事も増えてはいってしまうけれど――それでも出会わなければすることのなかった経験も、楽しい思い出も、確かにある筈で。
きゅう。子供の小さな手が、恭の服の裾を掴んで離さない。
「……ぼくは、おにいちゃんがここにいてくれたら、さみしくない」
「え」
「だから、ここにいて? おいていかないで……」
今にも泣きそうな震えた声で。涙を湛えた目で。訴えかけるそれが、罠だということは分かっているのに。
まるでそれは、どうしようもない甘い誘惑のように聞こえた。もう寂しくない。苦しくない。つらくない。ここにいれば、傷つかない。だからこのままここにいればいい。
――普段ならきっと、馬鹿げていると笑うのに。
「……でも、俺がいなくなったら悲しむ人がいるよ」
「じゃあ、ぼくのこと、おいてくの?」
「君のことだっていなくなったら悲しむ人がいるんだよ?」
「かなしいのも、さみしいのも、ぼくだもん。ほかのひとなんて、しらない」
「うーん、それはそう……」
「ほかのひとのことなんか、どうでもいいもん……」
だってどうせいなくなってしまうから。そう言っているようにも聞こえて、また胸の嫌なところが痛む。みんないずれはいなくなる。この世界の律のように、突然事故に遭って亡くなってしまうかもしれない。或いは、自分の知らないところで何かの事件に巻き込まれてしまうかもしれない。或いは、また目の前で失ってしまうかもしれない。もしかしたら、は常に身の回りに溢れていて、一秒先すら誰の命の保証もされていない。
死ぬわけじゃないから、いいんじゃないの。
そんな声がどこかから聞こえた気がして、恭は首を振った。そう、死ぬわけにはいかない。憂凛を泣かせたくないから。彼女の泣き顔は、もう二度と見たくないから。同じ涙を流すなら、幸せで涙を流してほしいから。
――そう、憂凛がいる。この世界だって。自分が生きている筈の世界にだって。誰よりも大切にしたいと願った彼女がいるから、此処に居るわけにはいかない。
「……おにーちゃんは、後悔したくないな。寂しくなっても、悲しくなっても、俺がいることで笑ってくれる人がいるなら、その人と一緒に生きたいよ」
胸の奥の温かいものを、いつも忘れたくない。忘れてしまうと、前に進めなくなるから。
じっと恭を見た子供は、恭が何を言っているのか分からない、とでも言いたげに首を傾げて。
「――じゃあ、それがなくなったら、おにいちゃん、ここにいてくれる?」
「何でそうなっちゃうかなあ……」
子供の言葉は、当然受け入れられるようなものではない。恭にとっては憂凛だけではなく、知り合った人間が全員いなくなってしまうのと同義だ。何もかもなくしてしまえと、そういうことになってしまう。首を傾げている子供は本当に意味が分かっていないのか、それとも。
話し合いでどうにもならない相手なのかもしれないが、この子供が恭が今削ぎ落されたような部分を持っているとしたら、倒してどうこうという問題ではないだろう。そのままなくなってしまう可能性も否定はできない。こういうとき律ならどうするだろうかと一瞬考えたが、その前に律ならここまでの状況には陥っていないだろう。
「おにーちゃんと一緒にここから出るっていうのは?」
「やだ! そとでたら、おにーちゃんもいなくなるでしょ!」
「おにーちゃんいなくなる予定ないけどな……?」
「だめ! ここがいい!」
いやだいやだと駄々をこねて首を振る子供に、どう言葉をかけていいのか分からない。何より、この子供が自分であるなら、どれだけ頑固かもそれなりに分かってはいるつもりだ。強い意思のある意見は、余程のことがない限りひっくり返らない。
ここから無理に出るのは不可能だろう。しかしこうして押し問答を繰り返していれば、それだけここに居る時間が長くなっていく。それは恐らく、思惑に嵌っているのと何ら変わりがない。ここにいる時間が長くなればなるほど、恐らく取り返しがつかなくなってしまう。
「分かった。じゃあどうしたら一緒にお外出てくれる?」
「……でないもん」
「でもさー、ここにずっといたってヒマじゃない?」
ずっとこの場所にいることで、何が起きるのかは分からない。けれど何も起きないとしたら、その先に待ち受けているのはそう遠くない『死』だけだ。生活らしい生活が成り立たなくなって、消えていくだけ。
「おなかだって空くしさー。それにここにいたら見たいテレビとかさ、やりたいゲームとか。できないじゃん?」
「……」
「悲しいこともいっぱいあるけど。楽しいことも幸せなこともいっぱいあるよ」
例えば、憂凛や律や桜が作ってくれる美味しい手料理だったり。
何気ないことを話す時間だったり、一緒に遊ぶ時間だったり、愛娘と過ごす時間だったり。そういったかけがえのないものを、恭は覚えている。知っている。やたらと冷静な頭でも、それを失ってはいけない時間だということを知っている。
「悲しいことは別のことで上書きできないし、いつまで経っても痛いけど。違うそういう幸せが増えて、痛いものを見つめる時間はどんどん減っていって、……時間が解決してくれるっていうのはそういうことなんじゃないかなって、今の俺は思う」
「……おにいちゃん、ずっと、くるしんでるくせに」
「そっかな。でも、同じくらい幸せに生きてると思わない? 俺。周りの人には恵まれてるよ。可愛い奥さんと娘にもさ」
「……そと、でて、こうかいするよ」
「しないよ。いっぱい泣くしいっぱい苦しむと思うけど、それはそれで俺が生きてるってことだから、頑張るしかないなー」
「……なんでおにいちゃんががんばらなくちゃいけないの」
「俺が頑張るのは義務じゃないよ。俺が、そうしたいだけ」
「どうして?」
「どうしてだろうなー。それは俺にも分かんない」
そう言って、恭は子供に笑う。ぱち、ぱち。目を瞬かせて首を傾げるこの子供に、上手く説明する言葉はないけれど。
「分かんないけど、俺は君にも笑って欲しいし、幸せだなあとか、楽しいなあとか、思ってほしいから。だから、ここから一緒に外に出たいって思うのは、だめ?」
恭の言葉に、子供の表情が動く。見え隠れするのは戸惑いと、怯えのような何か。ん、と首を傾げると、ずっと恭の服の裾を掴んでいた手がするりと落ちていった。
「……ぼくとでたら、おにーちゃん、こうかいしない?」
「後悔? 分かんないけど、置いていけないから一緒に出るしかないと思うんだよなー」
「おいてったら、やだ……」
「うん、分かってるよ」
離れた手を拾うように、恭は手を伸ばす。掴もうとしたその手は、しかし子供の側が引っ込めてしまう。背中に回されて見えなくなってしまった手を無理矢理掴むのも何か違う気がして、恭は自分の手に目を落とした。
この手は大切なものを掴むことができなかった手だ。
そしてこの手は、人の命を奪った手だ。誰が何と言おうとも。それが『偽者』と呼ばれる存在だったとしても。
それでも。だからこそ。
「……ひとりぼっちで、寂しかったよな。ごめんな」
「おにい、ちゃ」
「だから俺んとこ、帰っておいで。痛くても苦しくても、俺はちゃんと君と向き合うよ」
上手く笑えているのかどうかは、分からないけれど。
子供の小さな体を抱きしめる。びくん、と子供の体が硬直したと思った瞬間、ずきりと痛んだのは恭の頭。
本当は正面から見たくもない感情。自分を好きでいてくれる彼女を、自分の力不足と知識不足でどうしようもなく傷つけた。ずっと後まで残り続けるであろう傷を負わせてしまった。ちゃんと知識があればそんな事態を引き起こさずに済んだかもしれないのに。人を死なせた。目の前で死ぬ人を止められなかった。もっと自分に力があれば止めることができたかもしれないのに。自分を利用しようとしていた友人を止めることができなかった。ずっと一緒にいた筈なのに、何も気づかないまま一緒に過ごしていただけだった。その彼に一度自分を『殺させて』しまった。そして大切な彼女にその現場を目撃させてしまった。もっと自分に力があればそんな状況にならなかった筈なのに。人を殺した。例えそれが既に『死人』であったとしても、例えそれが本人に望まれたことだったとしても、この手で人を殺すことになった。もっと早くたくさんのことに気づいていれば、今でも彼は生きていたかもしれないのに。知らない間に大切な友人が消えていた。自分を慮って、全ての記憶を消していってしまった。もっと自分がしっかりしていれば、ずっと覚えていられたのに。
どうしようもなく自分は弱い。弱くて、その弱さが何より怖くて、それでも律の隣に立ち続けることを選んで今まで。けれどいつだって、足を引っ張っているのではないか、自分がいるせいで律がやりにくいのではないか、本当に大事なことは任されてはいないのではないか。任せたら、取り返しがつかないことになるから。そんな不安がぐるぐると渦巻いて、振り払って、見ないふりをし続けてきた。
「――……げほっ」
痛い。苦しい。いつの間にか腕の中から子供は消えていて、恭は倒れるように地に両手をついた。呼吸が上手くできない。とめどなく涙が溢れて止まらない。一気に押し寄せてきた思考が、感情が、上手く受け止められない。それでも約束した。向き合うと言った。逃げるわけには、いかない。
逃げたい。忘れたい。全部追い出して。そのままここで。そうすれば楽に。けれど、そんなことをしたら。
「……、ゆりっぺ、ういな……」
あの子をまた泣かせるのは嫌だ。
まだ出会えたばかりの大切な愛娘を手放すのは嫌だ。
何ひとつ手放したくないなんて我儘で、許されないのかもしれない。幸福である為にこの苦痛に耐えるだなんて、本末転倒で本当は幸福ではないのかもしれない。
それでも――譲れない。だから。
「……ごめん、律さん、たすけて……」