Unknown Error - 05

 夜、明かりのない礼拝堂に灯るのは、巧都が展開した魔術の光源。よく見慣れている律のものと同じものに見えるのは、恐らく故意にそうしているのだろう。琴葉と話した後憂凛と別れ、恭は話をまとめる為に巧都を誘ってこの場所に足を運んだのだった。
 一度死んだ場所。そして命を助けてもらった場所。

「……小夜ちゃんのばーか」

 ぽつりと呟いた言葉に、巧都が何も言わずに笑う。大きく息を吐いて、恭は何もない礼拝堂の床の真ん中に寝転がった。
 ――三条 小夜乃、或いはシャロン=マスカレード。『ディアボロス』であり、『エクソシスト』である者。
 恭の命を救った代わりに、小夜乃の力は落ちていたのだと琴葉は教えてくれた。故に昏睡状態に陥った後、全ての元凶を道連れに消えてしまうことを選んだのだと。その際に自分のことまで背負う必要がないからと、恭から記憶を消していったのだと。
 思い出さないように。思い出せないように。――それでも糸口を掴めば、いつの日か思い出してもらえるように。

「思い出してみてどうだった?」
「どうだったって何すか!? んん、でも、小夜ちゃんらしいなって思った。ゆりっぺも琴葉ちゃんも言ってくれたけど、ほんとに、小夜ちゃん優しいから、俺のためにしてくれたんだろうなってよく分かる」

 高校2年のあの日、初めて助けてもらった日からずっと。
 いつもいつも、助けられてばかりだった。日常のささいなことから、命まで助けてもらった相手なのに忘れていたことが歯がゆくて仕方がない。最後の最後まで、自分は彼女に何をしてあげられただろうか。
 あの時点で、彼女までいなくなってしまったことに耐えられたかどうかは分からないし、恐らく小夜乃の判断は正しかっただろう。5年も経ってしまっている今だからこそ、もう終わってしまっていることだと理解はできるからこそ、もういないのだという事実は受け入れられる。彼女の居ない5年を、生きてきているから。

「……でもまあ、思い出したからって出れないんすよね」
「そうだなー」
「だから、俺がしなきゃいけないのは、これを思い出した上で……ってことだよな、ぶんちゃん」

 ポケットから取り出したスマートフォン。何も映っていない画面に問い掛ければ、いつも飛び出してくる白いもやもやは出てこない。代わりに映ったのは、困惑した顔文字だ。

「律さんだったらもっと早くあれ? って思ったんだろうなーと思うと悔しいなー」
「つーか弟クンよく分かったな、何ならもう一週間ぐらい気付かねえんじゃないかと思ってたんだけど、俺は」
「いや、俺も自分でびっくりなんすけど。でもよくよく考えたらぶんちゃん、最初っから変だったなって」

 口うるさくよく喋る、恭の欠かせないこの『相棒』は。いつもなら『ちょっと調べてきたるわ!』と言ってあちこちで情報をかき集めてきてくれるのが常だった。だがしかし、ここに紛れ込んでからというもの一度も何も調べてはいない。一緒に考えるだけで、情報を探してくることはしなかった。そしていつもより口数も少なく、昨日の夜憂凛と話し出した頃から一度も『分体』は出てきていない。
 元々、『分体』の本体であった『彼岸』は情報収集を得意とする『彼岸』だったわけではない。インターネットという場所を住処とする『彼岸』であるが故に、『分体』にそういった特性が付随しただけで、その権能は全く違うもの。

「ま、本来はあの女のことを思い出させる目的はなかったろうけどなー。俺が介入したのも手伝ってめっちゃ変な方向にドリフトしてんのめっちゃ分かる、けけ」
「つか巧都さん分かってたなら教えてくれても」
「やだよばーか。俺が弟クン助けて俺にメリットねえし面白くない」
『……これやから格の高いヤツは』

 ふわり。出てきた白いもやもやは人型を取って、溜め息を吐いた。

『ちゃうねん』
「何がやねん」

 うなだれた『分体』から出た言葉に、思わず条件反射で返してしまう。ひゃひゃ、と笑う巧都はさておき、情報は必要だ。恭はここから戻らなければならない――律が、待っている。

『こんなことになると思ってなかって……いやもうそもそも茅嶋が死んでるてどういうことやねんみたいな……何も分からん……』
「俺も分かんないんだけど……?」

 声がしょんぼりとしているのが分かる。故意にこんな場所に恭を連れてきたわけではないのだろう、ということはそれだけで分かった。『分体』の元々の『本体』が何であれ、現在は他の『彼岸』の『ケンゾク』として存在を安定させている『分体』が、『本体』の性質に引きずられることは然程ない筈だ。

『恭が戦わんでええようになったらええなあって、そんなこと考えてただけやねん……』
「え、急に?」
『急ちゃうわずっとや! お前こないだかて死にかけたん忘れたか! 茅嶋おらんかったら死んどったぞ!?』
「あっはい覚えてますごめんなさいすいません!?」
『まあそんなこともあったから……、いつもよりちょっと強めに考えすぎたんかもしれん』

 よいしょ、と体を起こして、巧都の方に視線を向ける。ん、と目を瞬かせた巧都は、ややあって『分体』の方に視線を向けた。

「ついうっかり『本体』と一瞬繋がっちまったんだよ、こいつ。やっしーが倒してようが何だろうが、根源から『なくなった』訳じゃねえしな」
『すまん……ほんまにすまん……』
「……えーと、つまり? 何かそれが変な風にごちゃっとなった結果? 律さんがいなけりゃ俺が戦うこともない! みたいな感じになったけど? 結果的に失敗したとこに飛んだ?みたいな?」
『そないなるな……』

 それは巧都が介入したからなのか、それとも『分体』と一瞬繋がった、『本体』である『やり直し』の『彼岸』の一つと繋がった結果なのか、今現在『分体』が得ている力も合わさってしまった結果なのか。結果として誰もが分からない世界に迷い込んでしまった、ということなのだろう。
 律がいない世界。けれど結果としてそんな世界でも恭は戦い続けている、という結果が提示されてしまっている。『分体』の願いが叶えられたわけでもなければ、誰かが望んだ世界でもない。――いや、律の場合方々に恨みも買っているだろうことは想像に難くないので、律がいない世界というだけであれば誰かしら望んでいてもおかしくはない。そう考えると『院』に所属している『ウィザード』も関わっている可能性は高いが、それを恭が確認するすべはない。

『三条のことは、多分、恭が思い出したかったんやと思う』
「俺?」
『うん。ずっと忘れてるん、嫌やったんちゃうかな……、その辺も何かしら作用してる』
「……まあ、うん、忘れてたのまじで馬鹿じゃね俺とは思ってるけど……」
「まー間違いではないな。これは弟クンとぶんちゃんの深層心理の願い事が変に絡まった結果だから。言ったろ、これは弟クンの問題だって」
「うん、言ってた」

 こんな機会でもなければ、小夜乃のことを思い出すきっかけなどなかっただろう。だからあのモニカは、小夜乃を思い出すためのきっかけとしてこの礼拝堂を指し示した。憂凛は、琴葉は、思い出すことに協力してくれた。それはそうしてほしいという、願いの結果でもあるのだろう。
 ――そこまでは分かった。あとの問題は。

「さて、じゃあこの世界からどうやって抜け出すか、だよなあ……」
「まあ今のまんまじゃ抜け出せねえよ」

 ごく当然のように巧都が呟いて、へ、と恭は顔を上げる。思いのほか真剣な表情をした巧都と目が合って、面食らう。
 これは『分体』と恭自身願い事が絡まった結果だと、巧都は言った。恭の願い事が小夜乃のことを思い出すことであるならば、それは叶っている。『分体』の『恭が戦わずに済むように』という願い事は、『律がいなくなる』という形で提示されているが、そちらは叶ってはいない。

「……ええと、困ったときは前提から疑わないと、だったっけ」
「そうだな、いっつもやっしーはそうしてるな」
「前提……でもこの場合の前提って何? 律さんが死んでる話? 違うか……」

 それ以上のことは助言をしてくれるつもりはないらしい巧都は、腕を組んでじっと恭を見ているだけだ。どうにもプレッシャーを感じてしまう。こういったことを考えるのは苦手だ、では許されない。ここにいるのは恭だけで、憂凛も、モニカも、琴葉も――恭が知っている彼女たちとは、また違うものだと認識しなければならない。
 この世界に紛れ込んだのは、恭に戦ってほしくないと『分体』が願ったから。
 この世界で思い出せたのは、恭が心の奥底では小夜乃のことを思い出したいと思っていたから。
 その願いが歪な形で実現した世界。『コンティニュー』され、違う分岐を進んだ世界。『分体』の願いは律がいなくなるという形で提示され、恭の願いは叶えられているようにも思える。

「……いや、そもそも、願いが叶ってる、っていうのが間違いって話?」
『どういうことや?』
「小夜ちゃんのことは俺の願い事じゃなくて……これを俺に思い出させることで願いが叶う相手が別にいる……?」
「ほう。例えば」
「……俺を精神的に追い込む方法をずーっと考えてる人、いるよなって」

 柳川 恭は、茅嶋 律のパートナーである。
 それは確固たる事実で、周知の事実だ。律のことを知っている人間なら、名前は知らないとしても一緒に動いている『ヒーロー』、或いは『セイバー』がいることは知っている。恭がその位置につくとき、律に散々言われたのは「俺は恭くんを弱みにしたくない」ということだった。つまり、恭を狙えば――恭がいなくなれば。そう考える人間は少なからずいる世界であるということを律は理解していたし、幾度も恭に伝えてきた。これがその結果なら、恭に望まれているのは。

「いやでも、それが分かったところでこれどうにかなる?」
「さあな」
「巧都さぁん……」
「俺に甘えんな」
「うーん。……ええと、そだな、気になるのはやっぱ俺に聞こえた子供の声か……」

 憂凛は恭自身ではないかと言っていた。おいていかないで。ただその一言だけしか、情報はない。もう一度くらい倒れてみれば何か分かっただろうかとふと思ったものの、何度もあんな目には遭いたくない。倒れずに小夜乃のことをきちんと思い出せたのは、琴葉が『ヒーラー』として手助けをしてくれたからだ。それがなければ、上手く記憶を手繰れたかは分からない。
 ――いや、しかし、以前憂凛のことを忘れていたときのことを考えると、あまりにもすんなりと思い出せすぎてはいないか。それなら、あの子供の「おいていかないで」という言葉は、何だったのか。何かを見落としている。何を。
 襲ってくるのは、強烈な違和感。

「……ぶんちゃん」
『ん?』
「俺、なんか、変じゃない……?」

 言葉を口にした瞬間、何が起きたのか分からなかった。
 視界が真っ暗に染まって、次いで体が落下するような感覚。思わず叫んだ筈だが、口が開いただけで音は出なかった。どこかにぶつかる、と覚悟した衝撃はいつまで経っても訪れず、急に落下の感覚が嘘のように消え失せる。

「……な、んだ今の……」

 心臓がばくばくと音を立てている。思わず胸に手を当てながら辺りを見回したところで、何も見えない。

「ぶんちゃん? 巧都さん?」

 先ほどまで話していたのに、『分体』も巧都も気配がしない。声を掛けたところで返事はなく、この暗闇の中に一人で引き摺りこまれたのだということは理解できた。ぞく、と背筋に走った寒気に首を振って気を散らして、深呼吸を一つ。
 ――トリガーは、恭自身が気付くことだったのだ。

「……やっぱ俺おかしいってことだよな。やったら冷静だもん……」

 他がおかしいから、見落としてしまう。自分がいつもと違うことを。
 パニックにはなっているし、慌ててはいる。それでも頭のどこかがずっと冷静だ。こんな状況に陥って、こんなに自分が冷静であることが有り得るだろうかと考えたとき、それはない、と自分で思う。間違えている前提はそこだったのだ。一種感情を削ぎ落されたようなそれは、巧都の言う通り最初から恭の問題で、最初から答えを提示してくれていた。
 恭の『セイバー』としての力は、派手な必殺技や魔法のような力が使えるようになるわけではない。『変身』による恩恵は身体能力の強化のようなもので、己の体一つで戦うことには変わりがない。恭にとっての戦うための原動力は、守りたいという『感情』だ。その感情ひとつで、恭は『ヒーロー』から『セイバー』へと成った。つまりはそれを削ぎ落されると、恭は戦う理由を失ってしまう。
 ――だって、何も感じなかった。小夜乃のことを思い出したのに。ただその存在を懐かしく思っただけで。普段の自分に、そんなことが有り得るだろうか。その程度で済むならば、小夜乃はきっと記憶を消していくようなことはしなかった。
 きっとそれは、最初からそうだったわけではなく。

「これは絶対律さんに怒られちゃうなー、黙っとこ……」

 心当たりは、ある。憂凛に出された食事をいつもの通りに食べた。モニカに出されたカモミールティーを飲んだ。普通に睡眠もとったということは、この世界に『2日』いることになる。日常の延長線上のような状況だったから、普通に過ごしてしまった。恐らくは『彼岸』の手の内にいるというのに、そのことを意識から失念した。
 結果として、恐らく恭はこの世界の『柳川 恭』に近い存在へと変えられようとしている。それはある意味で、命を奪おうとするよりも性質が悪い。
 憂凛も、モニカも、琴葉も。限りなく本人に近いが、恭が知っている彼女たちではないという考え方ができなかった、その結果。徐々に同化して、戦う理由を見失っていく。そういった形で、『分体』の願いである『恭が戦わなくて済むように』の願いが叶えられようとしている。
 ぺちぺち、と自分の頬を叩いて、深呼吸。――逆に小夜乃のことを思い出してしまったのはまずかったかもしれない。自分が元に戻ったときにどうなってしまうのかが想像がつかない。それも織り込み済みだとしたら、相手はかなり周到だ。一筋縄ではいかないが、それでも。

「ま、律さんの相棒としてこれくらいでやられてらんないよな」

 巧都と『分体』とは切り離された。頼れるのは自分だけ。折れる前に、やるべきことは。

「――取られたもん、取り返さなきゃ」