Unknown Error - 03
ゆっくりと意識を取り戻す。オレンジ色の陽が差し込んでいる床が見えて、時間の経過を察した。随分と長い時間意識を失って寝転がっていたらしい。
「お、起きたか弟クン」
「……巧都さん」
「おはよーさん。思いのほかでけえ拒否反応だったな」
「う……」
体が酷く怠く、重い。覚えのある感覚にくらくらしながら体を起こして、恭は床に座り込んだ。まだ視界がぐらりと揺れるような感覚がある。
思い出さなければいけないのに、思い出させてはもらえない。そういう術が自分にかかっているのだろうことは想像がつくものの、何がどうなってそんな術をかけられているのかが分からない。
こういうとき、そういった術をかけているのは大概が『サイコジャッカー』か『ディアボロス』だという話は、恐らく当時モニカに聞いたのだ――と思う。同じように思い出せない記憶があって、思い出そうとすると酷い頭痛に襲われて、同じように倒れてしまったから。あのときは憂凛のことを忘れていた、ということは思い出せるのに、誰がどうしてその術をかけていたのかということを思い出そうとすると、また頭が痛む。すぐに思い出そうとするのは体に負担が大きいな、と恭は息を吐いた。
「……ここであったことを、思い出せってことなんすかねえ」
「さあ、どうだろうな」
「意識なくなる瞬間、声聞こえたんすよ」
「声?」
「子供の声だった。おいていかないで、って……」
「ふうん」
幼い子供の声。舌足らずな発音で、けれど確かにそう言った。置いていかないで。どこに、何を、――或いは誰を。聞き覚えのない声だった、と思う。
その子供を見つけることが、この事態の解決に繋がるのだろうか。だが、情報があまりにも少なすぎる。
「……何か泣きそうな声してたな……泣いてたのかな……」
「心当たりは?」
「ないっすね」
「本当に?」
「……って言われると自信なくなるぅ……」
肩を落とす恭に、ふ、と巧都は笑う。彼は恐らく、この事態を解決するすべを既に知っているだろう。聞こえた声の正体も、恐らくは分かっている。尋ねようとして口を噤んだのは、先に巧都に『道を指し示さない』と言われたのを思い出したから。自力で辿り着かなければ、きっと意味がないのだろう。
「質問してやろう。その声は男か、女か」
「どっちだろ。子供の声って分かりづらいっすよね」
「誰かを置いてったことは?」
「ない……と思うんすけど。ましてや子供だったら絶対置いてかない」
「まあ、弟クンは性格的にそうだよな。見捨てらんねえもんなあ。捨て猫軒並み拾う系」
「うん……」
二度と目の前で誰かに死んでほしくない。
高校生の頃に経験した出来事は、そしてそれこそ5年前に経験した出来事は、恭の中では根深く遺り続けている。一生引き摺っていく傷で、一生背負っていくことしかできないもの。だからこそ、守らなければという思いは強い。見知らぬ相手でも、そこにいれば助けたい。元々そういった性質はあったが、この数年は。
「じゃあ、追い詰められたことは」
「え」
「……それは心当たりがあるんだな?」
巧都の問いに、恭は小さく頷く。それはまさに今、頭に浮かんだことだった。
たすけなきゃ。
それは信念というよりも強迫観念にも近い状態で、恭の中に根付いている。見捨てられない。置いていけない。見捨てるのが怖い。置いていくのが怖い。その先が、怖い。だって見捨てたら、置いていってしまったら。
「……誰かがいなくなるのは、もう嫌だ、って思い過ぎてる、と思う」
――だからこの世界には、その象徴たる律がいないのかもしれない。
そこに行き当たって、恭は宙を見上げる。オレンジ色の陽は濃さを増して、残されたオルガンを照らしていた。
考えたいことも調べたいこともあるにはあるが、ひとまず仕事を終えた憂凛が帰ってくるだろうということで、恭は一旦自宅に帰ることにした。頭痛も怠さも取れはしたものの、恐らくそれを繰り返すことになるのだろう――と思うと少し気が重い。
このことについて、さて、誰のところに行って話を聞けばいいか、ということを考えたとき、頭に浮かんだのは。
「ひびちゃんかあ……」
『会いに行くんか?ゆーてこの世界の響が何処におるかは分からんぞ。茅嶋があの辺の処理終わった後やったら良えんやけど』
「行くだけ行ってみようかな。みおみおはいるだろうし」
芸能事務所『エンブレイス』。そこに所属しているアイドル、『Lovit』のMioこと菱川 澪生は律の弟子だ。5年前起きた事件に巻き込まれたその事務所は社長含めスタッフの殆どが居なくなってしまい、律が後任として現『エンブレイス』の社長である辺見 大樹を紹介した、という経緯がある。その後、縁あって響は『エンブレイス』社長秘書として働いている筈だ――尤も、恭はそれ故に『エンブレイス』に足を踏み入れないようにしているので、本当に働いているのは見たことがないのだが。
実際に会いに行くかどうかも含め、細かい話は憂凛に話を聞いてからにした方がいいだろう。彼女にもモニカと同様、きちんと話をするべきだ。
「ただいまー」
「お。おかえりゆりっぺ」
「すぐ夕飯するね! ちょっと待ってて」
「ごめんゆりっぺ、ちょっと話が」
「……、うん、分かった」
帰ってきた憂凛は、朝の恭のことを覚えているからだろう。特に何も聞き返すことなく、着替えだけ、と部屋に入ってすぐに戻ってきた。部屋着に着替えた憂凛は、そのまま恭は座っているソファの隣に腰を下ろして。それはよくある光景の一つなのに、どうにも緊張してしまう。それは憂凛も同じなのか、少しぴりぴりとした空気感を感じる。
「……ええと、どっから話そうかな」
「恭ちゃん今日、モニカさんに会ったんでしょう?」
「えっ知ってんの」
「うん。お昼休みにモニカさんから連絡もらったの」
恐らく、モニカが気を回してくれたのだろう。モニカは恭が自身が知っている恭でないことを受け入れていた。そのことは憂凛にも伝えておくべきだろうと考えてくれたと思って間違いない。恭が自分で説明するよりも、どちらの事情も把握したモニカが説明する方が話は早かっただろう。
「私には、どっちが本当のことでどっちが違うことなのか、分かんないし。もしかしたら都合よく、恭ちゃんの中に茅嶋さんが生きてた記憶が作られちゃったんじゃないかとか、考えちゃうんだけど」
「……うん」
「でもね、何て言えばいいかな……茅嶋さんが生きてる世界で生きてきた恭ちゃんの記憶が本物だったらいいなって、すごく思うの」
「……律さんが死んでる場合の俺ってそんなひどい?」
「ひどいっていうか」
ううん、と憂凛が言い淀む。3年間、この世界の自分はどうやって生きていたのか、今の恭には想像もつかない。律がいなくなる、という想像などしたこともなかった。無意識に目を逸らしてきていたのだろうとは、思う。考えたくもないことだったからこそ。
「茅嶋のお仕事がなくなったら、いなくなっちゃいそうだなって」
「雪乃さんの整理の手伝いが終わったら、ってこと?」
「うん。それも、恭ちゃんが自分から言い出したの。茅嶋さんの代わりするってすごい雪乃さんに頼み込んで。それ見て巧都さん……じゃなかった、磯城さんが茅嶋さんの代わり引き受けてくれて、2人で仕事行くようになって。でも、それが、何ていうか……」
――死に場所、探してるみたいで。
零れた憂凛の言葉が、2人の間に染み込んで溶けていく。
巧都は自分のことを『捩じ込んだ』と言っていた。整合性を合わせるために、『律の代わりを引き受けた』ということになっているのだろう、ということは想像がつく。実際問題そういうことになった場合、恐らくだが巧都はそんなことを引き受けるようなタイプではない。律がいなくなれば、そこで巧都とは縁が切れる筈だ。巧都が『契約』しているのは飽くまでも律であり、茅嶋家や恭ではない。
――つまり、この世界の恭は、本来なら一人だったのだろうか。一人で戦い続けることを、選んでしまったのだろうか。そう考えると、寒気がする。
「……でも俺にはゆりっぺがいるのに」
「うん。でも恭ちゃん、私と結婚するのやっぱやめようかって悩んでた」
「何で?」
「生きていける自信がなかったんじゃないかな、恭ちゃん自身に。言わなかったから、これは私の推測」
10年以上目標にしていたことを、突然失って。失いたくないと思っている人が、いなくなって。
きっと精神的に非常に不安定だったことは想像に難くない。そんな状態で憂凛まで失ったら、ときっと考えたはずだ。考えて考えて、出た結論は離れること、だったのだろうか。それでも憂凛が一緒にいてくれたから、この状況があるのだろう。
「あと……そうそう、アリスちゃんを喚び出せなくなった」
「え、何で!?」
「こっちは私もよく分からないの。恭ちゃんとアリスちゃんの間で何かあったはあったみたいなんだけど」
「喧嘩でもしたのかな……ええ……でもなあ……」
――居ると都合が悪いから、だろうか。とふと思う。『黄昏の女王』、恭と憂凛の呼びかけに応じて力を貸してくれる『彼岸』である彼女は、場合や力量差にもよるが少しぐらいであれば他の『彼岸』の『領域』を奪い取ることができる。奪い取られたら都合が悪いから、『居ないこと』になっている。そう考えれば分からなくもない、というよりもそれ以外に『黄昏の女王』が居ない理由がどうにも想像がつかない。
今でも常に共に居るわけではない。しかしそれは、恭が『黄昏の女王』に自分が不在のとき、憂凛や憂生を守ってくれるように頼んでいるからだ。余程のことがない限り、恭に『黄昏の女王』と離れる理由は特にない。
「……巧都さんにさ、これは俺の問題だって言われて」
「恭ちゃんの?」
「そう。んで昼間、あのー……昔ひびちゃんに捕まったことある古いおうちあるじゃん、礼拝堂のある」
「!」
「……覚えてる?」
「……あんまり、思い出したくないけど、うん」
憂凛にとっても、あのときのことは思い出したくないことであることは分かっている。恭が目の前で死んだ、などという事態が起きているのだから。しかしあの時、だからこそ憂凛があの場所に居たのは確かで、何か知っている筈だ。
――どうして、あもとき死んだ筈の自分は助かったのか。
そう考えるだけで、ずきんと頭が痛む。死んだショックで記憶が混濁している、ということではないだろう。後から何かが起きている。それを紐解くには、知らなければならない。
「……あのとき、何で俺、ひびちゃんに殺されたんだっけ」
「あれは……恭ちゃんが、私を守ってくれて」
「でも、ゆりっぺがひびちゃんと戦ってたのって、俺を守ってくれようとしたからじゃなかった?」
「……ええと、うん」
「俺、どうやって助かった?」
「……」
1つ疑問が浮かべば、芋蔓式に次々と覚えていないことに気が付く。記憶の整合性が取れない。何か大切なことが、すっぽりと抜け落ちている。困惑した表情で、憂凛は目を伏せて――暫しの沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
「……こういうの誤魔化すのは、茅嶋さん上手だったなあ……」
憂凛のその言葉は、つまり律は恭の記憶の欠如を知っている、ということだ。今までも当時のことに関して幾度も会話をしたことはある。その度、律は核心に触れないよう上手く誤魔化していたのだろう。意図的に話を逸らしたり、気付かれないように別の話題にスライドしたりということをしていたのかもしれない。気がつかなかったのか、或いは気がつかないようにしていたのか。
「……それはやっぱり、俺に言ったらまずいから?」
「うーん。どうなのかな……、あんまりそのこと、私が茅嶋さんと話すことはなかったから。でも、私も茅嶋さんも、何で恭ちゃんが忘れちゃったのかは、ちゃんと知ってる」
「忘れたままでいた方がいいって、律さんもゆりっぺも思ってた?」
「なぎちゃんのこと抱えてる恭ちゃんに、それ以上負担掛けたくなかったの。……忘れた理由が、それを考えた優しさだってことも、知ってるからね」
「あ……」
――松崎 渚。
ずるずると引き摺り続ける、血の止まらない大きな傷。5年経った今でも癒えることのないそれは、伴って生じる様々な心的外傷を少しずつ克服しながら、それでも一生抱えていくものだ。あの頃の自分の精神的な不安定さに関しては、自覚もある。少しずつ立ち直ろうと必死になっているところに、他の『何か』を抱えるほどの余裕は確かになかっただろう。
どうして隠していたのかと、責めるようなことはできない。2人とも、或いは他の知り合いも、気を遣ってくれているのだということが分からない程馬鹿ではない。しかし裏を返せば、それだけのことがそのとき起きている――ということになる。
ばくん。音を立てる心臓に、恭は息を吐いた。
それなら、聞いたところで果たして今なら受け入れられるのか。このまま何も聞かなかったことにした方がいいのではないか。しかしその場合、この世界から出る方法はなくなってしまうのではないか。様々なことが頭の中をぐるぐると駆け巡る。あれこれと考えるのは苦手分野で、別の意味で頭痛がしてくる。
「……あ。ごめんゆりっぺ、そのことで1つだけ確認したいんだけど」
「ん、何?」
「それに、子供って関係ある?」
「子供?」
きょとんとした憂凛の反応に、それだけで思いがけない言葉なのだと悟る。つまり、忘れていることに子供は関係がない。
しかしあのとき、意識を失う直前に恭は確かに子供の声を聞いている。おいていかないで、と言っていたその子供は何なのか。あのタイミングだ、何の意味もなく子供の声が聞こえるとは思い難い。
「声が聞こえただけで、誰か分かんないんだけどさ」
「子供……ううん、私が知ってる範囲では全然関係ない気がするけど……どういうことだろう。何か言ってたの?」
「『おいていかないで』って」
「……それ、いつ聞こえたの?」
「礼拝堂にいるとき。すんげー頭痛くなって、ぶっ倒れちゃったんだけどさ。そのときに」
「えっ倒れたの!? 大丈夫!?」
「わかんない。でも今んとこ大丈夫」
「もー……そういうこと先に言って……」
「ごめんごめん」
「でも、そっか。そんなときに聞こえたんなら……何かあるよね……」
ううん、と憂凛が考え込んで、沈黙が落ちる。暫くの沈黙の後、場に響く腹の虫の音。
「……ごめぇん……」
「あはは! だいじょぶ、夕飯食べてからまた考えよ?」
「うん」