Unknown Error - 02
本当に日常が少しずれているだけ、ということなのだろう――ジョギングしていたときは何も気にならなかったが、それもそのはず、街はいつもと全く変わらない様子だった。それでも何となく車を運転するのは憚られて、恭は久しぶりに公共交通機関を使って茅嶋家を訪れた。
外から見る茅嶋家は、やはりいつもと変わりない。それでも今現在律がいないのであれば、果たしてここはどうなっているのか想像もつかない。もらっている鍵は、自宅の鍵と一緒にキーケースの中に収まってはいるものの、使ってもいいものか。悩みつつも、インターホンを押したところで誰が出てくるか分からない。知らない人間が出てくる可能性も考えて、恭は鍵穴に鍵を差し込んだ。すんなりと入った鍵は、当たり前のようにがちゃりと音を立てて鍵を開く。
「お邪魔しまーす……」
『……静かやな』
家の中はしんと静まり返っている。人の気配を感じないなと思いつつ、ひとまずはいつも通りリビングに顔を出す。やはりそこもしんとしていて誰もいない。桜がいるのであれば、あとはキッチンか温室だろう。少し悩んでから温室の方に足を向けて、しかし空振り。色とりどりの花が咲き乱れてはいるものの、人がいる様子はない。
「……だーれもいないのかな」
『家広すぎて探すのめんどいな……桜に電話してみるか?』
「うーん……」
どういう状況なのか分からない桜に電話をするのは、どうにも悩ましい。下手なことを言って桜を傷つけたくない、という思いが先に立つ。憂凛から聞いた話でも、桜の名前は出ていなかった。今の茅嶋家の当主は雪乃のままだとのことだが、仕事量を減らしているということであれば日本にはいるのだろうか。或いはやはり、拠点のヨーロッパのどこかの都市にいるのか。居場所が分かれば会いに行くのは可能だろうが、さて、飛行機に無事に乗ることがるのだろうか――という心配もある。日常と変わりないように見えるとはいえ、行動範囲は限られているかもしれない。その確認も必要だろう。
せめて誰かから何かしら詳しい話を聞くことがればいいのだが。どうにかこうにか誤魔化して、この3年間で何が起きているのかの確認をする必要がある。悩みつつももう一つの心当たりであるキッチンに足を踏み入れて。
「……え」
「どうしたのですか、連絡もなく来るのは珍しいですね」
そこに確かに人はいた。だが、桜ではない。金髪碧眼の、シスター服に身を包んだ。見覚えのある、けれど懐かしい人。既にこの場所に居る筈のない女性。
「……モニカさん?」
「はい。何ですか、幽霊でも見たような顔をして」
雪乃のパートナー、『エクソシスト』モニカ=カルネヴァーレ。3年前『消息不明』になることを選んだ彼女が、そこに立っていた。
何が何だか分からない。どこから考えればいいのかわからず固まってしまった恭に首を傾げながら、どうぞ、とモニカはダイニングテーブルに腰掛けることを勧めてくれた。勧められるがままに腰を下ろせば、目の前に出されるカモミールティー。それは今でも、律や桜がよく淹れて飲んでいるものと同じものだ。
「……やばいもう何も分かんない……ちょっとモニカさん、訳分かんないこと言っていい?」
「はい、何でしょう」
「俺の記憶では昨日まで律さん元気だったんすけど」
仕事でくたくたの状態を元気と言えるかどうかは分からないが、それでも間違いなく生きていた。恭の言葉に目を瞬かせたモニカは、そのまま恭の対面に腰を下ろす。見覚えのある無表情は、けれど少し心配そうな表情にも見えた。
「続けてください」
「何もよく分かんなくて……今朝何か変だと思ってゆりっぺに聞いたら律さん3年前に死んでるっていうし、しきさん? とかいう『ウィザード』と仕事してるって言われるし、たぶん俺、違う3年間の記憶持ってここに放り込まれてるような状態だと思うんすけど……」
「成程。リツが亡くなった辺りからの記憶が私たちとは違うということですね?」
「うーん、たぶん……?」
「変な『彼岸』に巻き込まれている、ということでしょうか。となるとその辺りからの説明をキョウにした方がいいということですね」
「……信じるんすか?」
「いつもと違う表情をしていますし、あなたがそうだと言うならそうなのでしょう」
ごくごく当たり前のことのように、驚く様子すらなくモニカは言う。――いつもと違う、というのは恐らく、律がいなくなってからの3年を生きてきた、彼女にとっては昨日までの恭のことを指しているのだろう。
律がいない世界で『セイバー』として生き続ける自分は、一体どんな顔をしているのだろう。想像はつかない、というよりもあまり想像したくはない。
「……さて、リツが生きている世界の話は聞いてみたい気がしますが。一先ずはキョウの質問に答える方が先ですね。何が知りたいですか?」
「律さんは不慮の事故で亡くなったってゆりっぺに聞いたけど、それは本当?」
「不慮……、と言えるのかどうかは分かりませんし、何らかの手が加わった可能性がないとは言いませんが、事実です。大きな交通事故に巻き込まれて……、リツ以外にも数人が亡くなっています」
「そか。ええと……じゃあ、今茅嶋家は」
「跡継ぎがいない状況ですので、ユキノは少しずつ仕事を減らして他に割り振るようにしています。その手伝いをしてくれているのが先ほど名前の挙がったトオリ、そしてキョウですね」
「シキさん、何者……? いやでもその前に、桜っちって今どうしてんの? 見当たらなかったけど、家にはいない?」
「今はユキノとロンドンに居ますよ。日本にいるよりもそちらの方が気が紛れるようで」
「あ……」
この場所にいたくないのだ、ということはすぐに想像がついた。桜にとってこの家は、律との思い出が詰まっている場所だ。思い出して前に進めなくなるよりは、他の場所で過ごしていた方が精神的に良いということなのだろう。代わりにモニカがこちらに残っている、という形を取っているということだ。
つまり、今雪乃と桜はロンドンにいる――ということは、こうして会って話をするのは無理そうだ。電話やネットを使えば可能ではあるが、それが『本物』かどうかの判別はない。何より、会えないということは今回起きているこの妙な事態に関係がない、ということでもあるのだろう。恐らくは、もっともらしい理由がついているだけだ。
「で、ええと、しきとーりっていう人は」
「キョウの記憶の分岐点が3年前なのだとしたら、あなたも知っていますよ」
「へ」
「名前を変えているだけですから。トオリはタクト。リツに力を貸していた『カミ』です」
――幸峰 巧都とは何者か、ということを、恭はあまりよく知らない。恭にとって巧都は巧都である、という付き合い方しかしていないからだ。律に力を貸している、強大な力を持つ『彼岸』。分かるのは人の身には余るその力をぎりぎりまで借り受ける際、律の体に大きな負荷が掛かること。そして彼はかつて恭の姉である柳川 玲に『ウィザード』としての力を与え、その力の使い方を指南していた者だったというのが、恭の知っている幸峰 巧都という『彼岸』だ。普段はただの若者にしか見えないので、恭にとっては仲良く喋る相手の一人、という感覚である。
「……なーんで巧都さんがそんな名前で『ウィザード』として動いてんの……?」
「それは本人に聞いた方が早いのではないですか」
「でも俺連絡先分かんない」
「じゃあ弟クンはやっしーが俺に連絡してんの見たことあんのかっつー話だな」
「うおあ!?」
心臓が飛び出たかと思った。
振り返れば、いつの間にやら恭の背後に気配もなく男が現れていた。黒髪に金メッシュ、碧眼でパンキッシュな格好をしたその男こそが幸峰 巧都である。モニカが特に驚く様子もなく紅茶を飲んでいるので、少し前からこの場所にはいたのだろう。
「た、たくとさん……」
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん」
「びびった……まじでびびった……」
「パニック状態の弟クンにありがたーい一言を言っといてやるが、これは弟クンの問題だぞ」
「え」
笑いながら、しかしじっと恭の目を見る巧都の瞳に嘘はない。だが、恭の問題だと言われても何がどうなっているのかさっぱり分からない。朝起きたら違う世界だった、としかまだ恭には認識できていないのだ。
「俺は面白そーだから無理矢理この世界に『捻じ込んだ』だけで、別に弟クンの為にあれこれ教えてやろうとは思ってない。自分で選べ。自分で進め。悩め。弟クンが選ぶ道を手助けしてやることはあっても、俺は道を指し示さない」
「……ええ……ちょっとくらい教えてくれても……」
「イレギュラーで『こっち』から弾き出されるのも困るからな。あとは男が悩んで苦しんでる姿は俺の大好物だから堪能したい」
話しぶりからして、すぐに巧都は自分や分体と同じく『律が生きている』世界の記憶を持っているのだろう。彼のことだ、どちらの出来事も知っていておかしくはない。
けけ、と意地悪く笑う巧都に、後ろでモニカが溜め息を吐いたのが聞こえた。向き直ったところで、そこにあるのは無表情だ。
「……キョウの問題、ですか。それならば話は3年どころではなさそうですね」
「へ?」
「ほーう?」
「助けになるかどうかは分かりませんが、もう少し遡ってみてもいいかもしれません。……キョウ、茅嶋家が所有しているもう一つの家のことは覚えていますか? 知っていると思うのですが」
「もうひとつ……? ……あ、」
数年前の記憶が蘇る。礼拝堂を擁した古びた洋館。律の祖父の代に使われていた茅嶋の家だと聞いたことがある。恭の記憶では現在は鴉の『化生』、リノ=プリドに正式に所有権が移され、彼が拠点として使っているはずだ。しかし――こちらでは、そうではないらしい。
「もうほとんど取り壊しは終わっているのですが、礼拝堂はまだ残っていますので。行ってみてはいかがでしょう」
正直なところ、恭はその洋館に全くいい思い出がない。
訪れたのはたったの一度、それも自分の意思での訪問ではなかった。拉致された先がそこだった、といった方が正しい。正確な場所は全く覚えていなかったので、道案内のためにモニカが『分体』に住所を教えてくれた。
ほとんど取り壊しが終わっている、というモニカの言葉通り、洋館があった場所は工事現場と化していた。何の音もしていないことから察するに、今日は工事は休みなのだろうかと思いつつ防音パネルで囲われた工事現場の内部に足を踏み入れる。
「足元気をつけろよー、弟クン」
「はあい」
何の気まぐれか、それとも思うところがあるのか。行ってみる、と決めた恭に巧都は「じゃあついていこー」とあっさりと同行してくれた。先導するように歩く巧都の後ろをついていきながら、恭はくるりと周囲を見回す。
洋館が取り壊されているということは、ここにかの『化生』はいないのだろう。律の祖母の許可を得てこの場所を使っていたリノに、洋館を正式に譲り渡すことを決めたのは律だったように記憶している。仕事の手伝いを頼む代わりの報酬の先払い、といった形だったか。律がいないので、リノも既にここを拠点としては使っていない、という形になるのだろう。
残っている礼拝堂に足を踏み入れて、恭はゆっくりと息を吐き出した。ずきん、と頭が痛むのは、やはりいい思い出はないからか。
――かつてこの場所で、恭は一度死んでいる。
「……オルガン残ってるんすね」
「都合上洋館だけ先に取り壊すことになったらしい。このオルガンを撤収したら礼拝堂も取り壊し、って形なんだと」
「何で巧都さんそんなこと知ってるんすか」
「俺に知らねえことがあると思ってんのか?」
『これやから格の高い奴は……』
情報収集、という自分の十八番を奪われた形になる『分体』に、恭は苦笑う。とはいえ巧都が全てを教えてくれるわけではないことはもう分かっていることだ。自分で調べなければならないことに当たったときは『分体』に頼るしかない。
中に置いてあったものはほとんどが撤収されている。説教台も椅子もない、ただオルガンが残っているだけのがらんとした場所。ここにいたとき、恭はろくに戦うことができる状態ではなかった。足がろくに動かない状態になっていたから。それでも這ってきたここで、かつて友人だった『サイキッカー』、或いは『サイコジャッカー』の乙仲 響に殺されかけて、助けに来た憂凛と戦っていて、そして恭は憂凛を守るために。
「……いっ」
「おー、大丈夫か」
「……俺、何であのとき、ひびちゃんと戦わなきゃいけなかったんだっけ」
ずきん、ずきん、ずきん。
酷く頭が痛い。この感覚は初めてではない、『あのとき』も。あのときは、憂凛に関する記憶を失っていて。思い出そうとすると警告のように頭痛が酷くなって、それでも無理矢理思い出したのだ――必死で。思い出さなければいけなかったから。
どうして憂凛のことを忘れていたのだったか。誰が憂凛のことを忘れさせたのだったか。
「……ッ!」
『大丈夫か恭!?』
「い、てぇ……っ」
思い出そうとすればするほどに締めつけられる痛みが走る。思い出してはいけないのだと脳が警鐘を鳴らしている。だからこそ『これ』か、と理解できる。
恭を律の居ないこの世界に呼び込んだ『問題』は、ここにある。
おいていかないで。
「あ……?」
子供のような声が聞こえて、そこで恭の意識は途切れた。