19

 薄らと目を開けば、朝焼けの眩い光に照らされる。あ、と上がった聞き慣れた声は、己の神使のもの。

「おはようございます、あるじさま。……ああ、ようやく恙無く終わられたようですね」
「うん。長らくありがとう、黎明」
「いえ。あるじさまが本当にお元気になられて、何よりです」

 嬉しそうな笑顔に、嘘はない。黎明が嘘を吐く理由もない。この日のために、黎明は――そして有明も、ずっと尽力していた。その忠誠は、片時たりとも歪むことはない。
 ぱち、ぱち。瞬きの中に映る世界は、いつもと何ら変わらない。穏やかな日常。蠢くものたちも、また然り。
 不意に全く違う景色が視界に差し込まれて、眉を寄せる。どこかのアパートの部屋のような、或いは学校のような、或いは居酒屋のような。ノイズのように走ったそれはすぐに失せて消えたものの、あまり心地の良いものではない。まるで神域に土足で踏み込んだかのようなそれは、確かな穢れだ。

「……あるじさま、」
「気にしなくて良いよ、黎明。大したことはない」
「しかし、その御尊体に障りませんか?」
「これくらい、可愛いものじゃないか」

 ふふ、と笑えば、黎明の表情が少し困惑する。しかしそれ以上の言葉を噤んだのは、機嫌を損ねないためだろう。黎明らしい、正しい判断だ。
 しばらく風景を眺めていると、静寂を裂くように大きな声が聞こえた。鳥居を通り抜けて走ってきたのは有明だ。普段なら咎めるところだが、今回ばかりは許すべきだろう。何しろ、随分と心配をかけたようだから。

「あるじ!」
「おかえり、有明」
「おかえりはこっちの台詞だよ。ようやっと本当にあるじだな」
「そうだね。ありがとう、有明」
「……ああ、でも、」

 ふ、と有明が目を細める。そのまま眼前に跪いて、指先が伸びた。ぐ、と掴んだものに、笑う。

「過保護だね、有明」
「こんな虫みたいなもん、いつまでもあるじについてんのは我慢ならない」
「もう、有明は酷いんですから。もうあるじさまでもあるのですよ、言葉は選びなさい」
「だって、これはあるじには不要だろ」
「そうですけど」
「足掻くという行為は、とても人間らしいものだと思うけれどね」

 いやだ、と叫ぼうとしていた声を思い出す。もう声も失っているのに、それでも足掻こうとした愛しいもの。
 この暁天神社で過ごした日々は、救いの日々だったのだろう。有明と黎明に認められ、日々をこなし、そこに苦痛は存在しない。その上で、溶ける。それはあの日、願われた通りのことだ。手を貸しはしなかったが、結果として願いを叶えたのに、何をそこまで嫌がっていたのだろうか。
 つくづく、人間というものは欲深い。一つ願いが叶ったら、次の願いを叶えようとする。叶わなければ怨嗟の声を上げる。どうしようもなく我儘で、自分勝手で、利己的で――だからこそ、愛おしい。

「……ああしつけえ、あるじが汚れる」
「気にしなくていいよ、有明」
「だってせっかく、やっと穢れが祓えたのに」
「少しの間は遺ってしまうものだよ。その辺りは分かっているだろう?」
「だって祓うのに無駄に時間かかったんだぜ、あるじ」
「大した時間じゃないさ」

 手をぱたぱたと動かして、何とか空間に小さく残る穢れを消そうとする有明に、肩を竦めて見せる。だって、と唇を尖らせる有明に首を横に振れば、それ以上のことは諦めたようだ。不貞腐れた顔をしながら頷いた有明に笑ってから、己の胸に手を当てた。
 ざわり、ざわり。どこか遠くで、何かの小さなざわめき。揺らいでいる、騒いでいる、叫んでいる。最期の残り香。

「ああ、愛おしいけれど。これ以上は、ただただ騒がしいだけだね」

 小さく呟いてそっと胸元に手を当て、軽く撫でる。一瞬だけ燃えるような熱さを遺してから、そのざわめきは波が引くように静まった。これ以上、日々の邪魔をされるわけにはいかない。

「……安らかに眠るといい、もう苦しまなくて良いのだから」
「意外と人間に優しいんですから、あるじさまったら。そういう慈悲が良くないんですよ?」
「そうかなあ。ああ、そんなことより、お客だね」
「今日も仕事するかー」
「頼むよ、有明、黎明」

かつん、かつん、と石段をゆっくりと登ってくる音。その音が止まり、鳥居の向こうで恭しく一礼する気配。視界に入ったそれに小さく頷いて、居住まいを正した。