18
「おはよう、日高 紘孝」
聞こえたのは、穏やかな声。急に意識がはっきりして目を開いた。
けれど、何も見えない。何も映らない。ただただ真っ暗な暗闇が広がっている。自分の姿さえ全く見えない。
それでも動こうとした。動かない。指先一本、何もかも。それどころか、俺の指が、手が、腕が、足が、あるような気がしない。
(……な、に)
「ああ、まだ思考は残っていたか。なら、少し話をしよう。君のおかげで私は無事に力を取り戻せた。感謝しているよ、日高 紘孝」
日高 紘孝。
繰り返されたその名前に、はっと記憶が戻る。それは、俺の名前だ。
長い間、その名前を忘れていた。いや、どこかのタイミングで聞いた覚えがある。紘孝――そう、確か熾葵ちゃんが、電話でその名前を呼んでいて。
「さて、君にはどこから話そうか――なに、ちょっとした思い出話だけれど。
君が私のところに来る前、私は穢れてしまってね。私に届くほどの強い願いを持った人間がいたから、その人間の願いを叶えた結果なのだけれど。
穢れを癒すために、私たちは一人の少年を育てることにした。その少年をきちんと私の力とするために、私の代理をしてもらっていた。
しかしその少年はある日、私の力を使って人間の願いを叶えた。いけないね、それは許されない。有明や黎明はいたく反省していたよ、私を癒すはずが、穢れを酷くしてしまった――と。
人間の願いを叶えるということはその分、神がその人間の穢れを背負うことになってしまうからね」
困った子だったよ、と声は笑う。小さな子供に言い聞かせるような、柔らかい口調だった。
ぞくりとした感覚が巡る。この声は、何を話しているんだ。
「穢れてしまった少年を、再び育て直すには私は弱り過ぎていた。早急に新しい代理が必要だった。困っていたところにやってきたのが、君だ。
少年はこれ幸いと君と入れ替わることを決めた。そうすれば情の移った人間と共に生きていける。私は新たな代理を手に入れることができる。
試みは上手くいった。少年のことを反省していた有明と黎明は、きちんと君を神様として仕立て上げてくれた。大切に手をかけて、余所見をしないようにしっかりと。アレらはよく働いてくれた」
有明。黎明。――アケ、メイ。
俺に神様の在り方を教えてくれた神使。怒りながら、宥めながら、いつも傍にいてくれたふたり。
(――は?)
急に思い出す。
そう、俺は神様の「代理」だ。ただの代理で、神様じゃない。
アケとメイも、最初の頃は俺のことを代理として扱っていた。いつからか、俺はふたりに「終宵」として扱われていた。代理ではなく、神様として。
そう、だから、ちゃんと神様の仕事をしなきゃ、って。知らないことが多くて、大変だけど、楽しくて充実した毎日で。
――俺は、いつから、錯覚していたんだろう?
「お陰で、君の魂はよく私に溶けてくれた。これで私はしばらく安泰だ、あの神社に祀られる神として存在できる」
でも、だって、そんなはずはない。
あの優しさは、確かに俺に向けられていたもので。あの肯定は、確かに俺に向けられていたもので。
神社に参拝する人々が、俺の名を呼んでいた。神様お願いしますと、祈ってくれた。俺はきちんとその声を聞いていて、その願いを聞いていて、見守った。それが神様の仕事だって、アケとメイが教えてくれたから。
俺は確かに必要とされていて。
――本当は、違った。
「日高 紘孝。――いや、その名はもう相応しくないのか。かの少年にその名を、その存在を渡したのは君なのだから。
だとすれば君を何と呼ぶのが正しいのかな。名前がないというのは不便だね、存在を固定できない」
俺は。俺の名前は。
あるじと呼ばれた。あるじさまと呼ばれた。終宵と呼ばれた。神様と呼ばれた。
そのどれもが、本当は俺ではなくて。
ようやっと理解する。この声の主が、本物の「終宵」であることに。暁天神社に祀られていて、アケとメイが仕えている、本物。
俺は、ただの、代理。
「まあ、固定する必要もない。君は私に溶けた。もうすぐ消えるだけの存在だ」
(――いや、だ、)
「いや? 不思議なことを言うね。死のうと思っていたのは君で、私に楽に死ねるようにと願ったのも君で、かの少年と入れ替わることを決めたのも君だ」
声は穏やかに、静かに、突きつける。
かつて生きていた俺を。全てに投げやりになっていた、あの頃の俺を。
「かの少年は、あの少女と添い遂げて幸福を掴んだよ。少年も君も、これで願いが叶ったわけだ。よく頑張ったね」
(ちがう、おれは、)
「さようなら、名もなき人間。ゆっくり、おやすみ」
何もかもが、途切れていく。
(――
ぶつん。