20

 今日も暁天神社は、静かに人々の営みを見守っている。

「こら、走らないの」
「おみずつめたい!」
「あーもう勝手に。服濡れちゃうだろー。ほら、抱っこな」

 静かな神社の中、境内の隅にある手水舎からわいわいと響く声。しばらくの喧騒の後、からからと鈴の音が響いて、かん、と賽銭の落ちる音。ぱん、ぱん、と響く柏手は、二つ。遅れて、たどたどしい小さな柏手が一つ。
 先程までの喧騒が嘘のように、一瞬だけ落ちる静寂。ひやりとした静けさが、穏やかに溶けていく。

「帰ってきてたんだね、熾葵ちゃん」
「あ! お久しぶりです」

 参拝を終えて本殿の前から下がったタイミングを見計らって、宮司が参拝客の女性に声をかけた。嬉しそうな笑みを浮かべた女性が小さく一礼した隣で、男性が子供を腕に抱いたままおずおずと頭を下げた。

「ああ、初めまして。あなたが」
「初めまして、日高と申します。妻がお世話になって……」
「いえいえ。一度お会いしたいと思っていたんです。来てくださってありがとうございます」

 宮司の言葉に、男性はもう一度、今度は丁寧に頭を下げた。宮司は男性の腕の中の子供に視線を向け、嬉しそうに表情を崩す。こほんと照れくさそうに咳払いをして、ありきたりな世間話。結婚して何年になった、子供が何歳になった。そんな話を一通りしていると、他の参拝客がやってきたので、宮司はじゃあまたと笑って、社務所へと戻っていった。
 参拝客の女性は、本殿を見上げる。落ち着いた柔らかい空気は、昔から変わらない。

「……何で今まで来なかったんだろ。いいところだな、この神社」
「でしょ? だから何回も誘ったのに」

 不意に呟いた男性の言葉に、女性が反応する。呆れたように、仕方なさそうに笑う表情は柔らかい。

「何か、ずっと来ちゃいけないと思ってたからさあ……今考えると、意味分かんないんだけど」
「そういうの、あるよねえ」
「熾葵の迎えに行くのも嫌だって断ってたの、何だったんだろ」
「ほんとだよ」

 わざとらしく怒ったような顔を見せる女性に、男性は肩を竦める。
 少し見て回りたいという女性の申し出に、男性は頷いた。物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回していた子供も、女性の言葉にきゃっきゃと喜ぶ。
 それほど広い境内ではない。砂利を踏みしめつつゆっくりと歩いてぐるりと回っても、たった数分程度のものだ。

「……笑っちゃう話なんだけどさ」
「ん?」

 神社の片隅。
 入ってくる人からはおおよそ見えない位置で、女性の足が止まる。穏やかな日差しが落ちている、静かな場所。思い出したように、女性は口を開いた。

「私、昔この神社の神様が見えて話せる、って本気で思ってた時期があったんだよねえ」
「は? 何それ。あ、霊感あったとかそういう?」
「そんなんじゃないよ。深掘りするようなやつじゃなくって、単なる厨二病」

 少しだけ恥ずかしそうな女性の様子に、男性は声を上げて笑う。むっとした女性にごめん、と笑いながらも、その目尻にはうっすらと涙が見えた。

「ガチの黒歴史じゃん。私は神様の友達だから、他の人とは違うってやつ?」
「そこまでじゃないけど! ナイショね。この子に変なこと教えないでよ」
「聞いちゃったから神社行く度思い出しそう」
「意地悪過ぎる! 言ったら怒るからね、本当に」
「はいはい」
「ままー、おなかすいたー」
「あ、もうそんな時間か。じいじとばあばのところに帰ろっか」
「そうだな」

 鳥居を出て、二人そろって一礼。男性の腕の中から降りた子供が、本殿を眺めながらばいばい、と小さく手を振った。女性はその子供の視線につられて本殿に目を向け、振っていた手を取って繋ぐと、そのまま背を向けた。
 夕飯はどうしようか。皆で何か食べに行こうか。電話して、何か買って帰らなくていいか聞こうか。そんな他愛のない話をしながら、石段をゆっくりと降りていく音が響く。笑い声が遠い喧騒に溶けていき、神社の中には静寂が戻っていく。
 風が吹き抜け、瑞々しく生い茂った樹々が、ざわりと音を立てた。あたたかな木漏れ日が石段の上で揺れ、やがて静まった。

 そして今日も、暁天神社は穏やかに――。

前のエピソード
次のエピソード