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 日高 紘孝という男は、かつて神様代理だった。
 ――という記憶はとても突拍子がなくて、現実味もなくて、虚妄としか思えない戯言だ。しかしそれは事実であり、本当の「日高 紘孝」は今頃、自身と入れ替わって神様代理をしている。
 そして今、彼は「日高 紘孝」として生きている。入れ替わる前のこと、知らない筈の「日高 紘孝」という人間の記憶が馴染んでいく。気づけば神様代理であった頃の記憶は薄れて失われ、何か長い夢を見ていたような心地になる。
 それでも確かに、彼は。

「……ここで神様、してたんだよな」

 鳥居の外、石段の下から見上げる神社。暁天神社。終宵と呼ばれる神を祀る場所。かつて自分が過ごしていた場所。そして今は、彼女のバイト先。
 彼女には神社には行かないと言い続けて数年。実際のところ、彼は何度かこうして、神社の近くまでは足を運んでいた。だが、それ以上は足が動かない。この先に行くことができない。
 神社に拒絶されているのか。
 それとも、自分が拒絶しているのか。
 恐らくどちらもだろう、と彼は考えている。もう二度と、神様代理には戻りたくない。ようやっと戻ってきた人間としての生、大切な彼女と共に生きる願いを叶えた生。元々入れ替わる前、「日高 紘孝」は人生に絶望していた――だから入れ替わった。だから入れ替われた。
 だから、自分は逃げ出せた。
 どうして自分が神様代理になっていたのか、彼自身はもう覚えていない。それはとうの昔に失われ、彼の中から消えたもの。きっと死を願うようなことがあったのだろう、と漠然と思っている。生きる理由がなかったのかもしれない。だからこの神社に、自分の人生の終わりを願ったのかもしれない。
 暁天神社は、終わらせる場所。

「……元気でやってんのかな……」

 騙し討ちのように入れ替わったことに、罪悪感がないわけではない。だが、「日高 紘孝」は生きる気力を失っていた。入れ替わって「日高 紘孝」が人生に絶望していた理由については何となく理解できたが、それでも彼は生きようと思った。せっかく手に入れたチャンスを、逃がすつもりはなかった。
 死に物狂いで頑張って、頑張って、頑張って。生活は軌道に乗って、彼女に会いに行くことができて、そしてあの日願った通り、彼女と共に生きる道を手に入れた。――幸せだと、胸を張って言える。
 だからこそ、気になってしまう。あの日自分が逃げ出した場所に、今現在収まっている相手のことが。

「また来たんですか、元あるじさま」
「……黎明」
「まだ私の声は届くんですね」
「うん、すっかり姿は見えなくなったけど」

 くすくす、笑う声がする。かつて自分と共にいた者。神使、黎明。
 姿を知っていたはずなのに、その姿は今の彼には見えない。聞こえる声も、徐々に聞き取りにくくなっている。きっともうすぐ聞こえなくなって――そして彼は、神様代理であった記憶を失うのだろう、と直感している。

「熾葵と幸せになれたようで、何よりです」
「……うん」
「この街を出るのですね」
「まあ、熾葵の実家がこっちだし、たまに帰ってはくると思うよ。ぼ……俺はもう来ないけど」
「ではあるじさまに最後のご挨拶に?」
「迷惑、かけたから」

 もしあの日、熾葵と出会っていなければ、きっと自分は神様代理としてきちんと務めを果たしただろう。
 それでも、出会ってしまった。
 愛してしまった。
 その人生に、手を出してしまった。
 だから。

「……代替わりは、順調?」
「今の元あるじさまには、関係のないお話ですね」
「それはそうだけどさ……」
「ご心配なく。あるじさまはとても元気になられました」
「……そっか」

 ずきん。
 その痛みの意味を、彼は知っている。息を吐いて振り払う。この痛みは、この感傷は、今の自分には相応しくない。
 人として。「日高 紘孝」として。彼女の隣で生きていくと、決めたのだから。
 もう、あの頃の記憶は思い出さない。思い出せない。

「……有明にもよろしく言っといて」
「ええ。さようなら、元あるじさま」

 声が掠れて消えていく。――もう、今何を伝えたのか、誰に伝えたのかさえ、思い出せない。きっとすぐに、そう感じたことさえ、自分の中からは消えていくのだろう。
 目を伏せて、彼は静かにその場を立ち去った。