15

 それがいつからだったのか、俺にはもう思い出せなかった。
 目を閉じるたびに、瞬くたびに、時間の経過が早まっていく。桜が咲いていたはずなのに、樹々が青々としている。ひりつくような太陽を見た気がするのに、凍てついた曇り空から小さな雪が舞い散っている。気づけば熾葵ちゃんは来年は就職だと話していて、笑っていて、その間に何が起きたのか、俺には全く分からない。

「……俺おかしくない? 大丈夫かな……」
「大丈夫だよ、あるじ。気にしすぎ」
「そうですよ。あるじさま、たくさんお仕事されて忙しかったですからねえ。よく頑張ってくださってる証拠です!」

 アケとメイはそう言って笑う。忙しかった、そう言われたって俺にはその記憶がない。そう訴えれば、二人してきょとんとした顔をして、ちゃんと仕事をしていたと言う。
 大祓は滞りなく進んだ。
 七五三で子供たちを見守った。
 初詣の多くの人々の願い事を聞いていた。
 そういうことを、きちんとしていたとアケとメイは言う。どれも二人に教えてもらった、俺がここで終宵として過ごすために教えてもらった、神としての仕事だ。二人がそう言うのだから、俺はきちんとその仕事をこなせていたのだろう。
 ――本当に?
 何かがおかしい。何がおかしい。
 それでも、俺が「終宵」に入れ替わって、もう長い。きっと今の生活に馴染んできたからそういうことになっているのだ、と思い込むことにして。
 瞬く。季節が飛んでいく。微睡む。季節が飛んでいく。一息吐く。季節が飛んでいく。

「もしもし、紘孝?」

 そうして。
 幾度目かの微睡みの後、聞こえた名前に不意に意識が覚醒した。目を開けば、喋っているのは熾葵ちゃんだ。
 もうすぐ卒業だということもあり、社務所で働くのもあと少しだという話をしていたような。あれ、俺、それいつ聞いたんだっけ。
 いや、そんなことより。今、熾葵ちゃんが発した名前。紘孝。その名前に、ひどく聞き覚えがある。

「……うん、今日でバイト終わり。挨拶終わったから、迎えに来てよ」

 電話をしている。話している熾葵ちゃんは嬉しそうだ。
 もう熾葵ちゃんに俺の声は届かないと知っているのに、口を開く。けれど、声が出ない。多分まだ半分以上微睡んでいるのかもしれない。
 紘孝。ひろたか。その名前は、何だっただろう。
 会話の内容から察するに、きっと電話の相手は熾葵ちゃんの彼氏だ。大学生になって付き合い始めたその彼氏と、ずっと仲良くしていることは知っている。幸せそうで、ああ、よかったと思っていたから。
 俺のことが見えなくなって、俺と話ができなくなって、何もかも見えてしまっていた彼女は何も見えなくなって。きっとこれからの人生を幸せに、生きていくから。

「……えー? 私としては、紘孝にも皆さんに一度くらい挨拶してほしいんだけど。だめ?」

 電話の向こうで、誰かが笑っている音がする。
 その音に、やけに聞き覚えがある。俺はその音の正体を知っているはずなのに、それが何だったかを思い出せない。
 たくさん、たくさん聞き届けた願い事のうちの、ひとつの音だろうか。
 それとも、もっと違うものだろうか。
 一瞬、熾葵ちゃんの声が遠くなる。また微睡み始めているのだと気づいて、そして俺は必死で意識を繋ぎ止める。今眠ってしまったら、次に意識がはっきりするのがいつになるか分からない。
 どうしてだろう。今、熾葵ちゃんの会話を聞いておかなければいけないと思った。
 今を逃したら、俺はきっと。
 ――きっと?

「……うん。じゃあ、代わりに終宵に挨拶しておくね。はーい。……うん、じゃあ後で」

 電話が切れる。微かに聞こえていた音が閉じる。
 手に持っていた電話を鞄の中に仕舞い込んだ熾葵ちゃんが、静かに本殿を見上げた。静かな表情には、どこか寂しさも感じて。
 小銭の音。鈴の音。手を叩く音。

(今まで本当にたくさん見守っていただき、ありがとうございました。今日で一区切りです。でも、今後もこの神社に訪れることはあるかと思いますので、どうか紘孝共々、何卒よろしくお願いいたします)

 ――静かに届く、熾葵ちゃんの声。
 そしてまた、俺の意識は微睡みの中に消えた。

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