Pie - 02

 影那の返信を見たのが遅い時間だったということもあり、その意味をすぐに問うことはできなかった。そんなときに限ってバイトも入っていなかったため、結局詳しい話は聞けないまま、友人と件のパイ屋を訪れた。
 訪れはしたものの、友人の目当てである店長については、店に顔を出していないようだった。イケメンが見たかったと嘆く友人に笑いながら、府たちでカスタードパイに舌鼓。その後、帰る方向が真逆であることもあり、店の前でじゃあまた、と別れて、紬希は駅までの道を歩き出した。
 よくよく考えれば、近所なのだからこのまま猫カフェに顔を出してもよかったな、とふと考える。パイは相変わらず美味しかったし、別段前と変わったようなところもなかった。影那は何故、やめておいた方がいいと言ったのだろう。あの後、何か変わったことでもあったのだろうか。
 そんなことを考えながら歩いていた、そのとき。
 ――ひゅん、

「えっ……!?」

 突然、後ろから殴り掛かられた。何とか掠める程度で避けられたものの、突然のことに理解が追い付かない。振り返れば、フードを目深にかぶった男がそこに立っていた。ぞく、と背筋が粟立つ。
 感じ取れてしまう、明らかな害意。そして間違いなくこの男は、何らかの力を持っている。
 この前のC-ONのこともある。変なことに巻き込まれることには、それなりに耐性がある方だとは思っているがしかし、こんなふうに人に襲われるというのは初めての経験だ。どう対応するのが正解なのか分からない。
 頭に浮かんだのは影那のこと。――彼女とそこまで深い話はできていないが、それでも紬希よりはるかにこういった事態に慣れていることは見て分かる。スマートフォンを取り出し、すぐに影那に通話を試みる。間を置かず、すぐに影那に繋がって。

『もしもしつむちゃ、』
「助けて影那さん、何か変な人、がっ……」

 からから、がちゃん。
 紬希の手からスマートフォンが吹き飛んで、アスファルトを滑っていく。それに視線を向けることもできないまま、気が付けば紬希はその場に膝をついていた。
 ひどく嫌な感情が、急に心の内側に入り込んでくる。何が何だか分からないまま、ぼろぼろと涙がアグレ出して止まらない。気分が悪い。怖い。――怖い。
 フードに隠れて顔は見えないが、目の前の男が確かに笑ったのが分かる。何をされたのか全く分からない。ただ、動けない。怖くて、苦しくて。ぐちゃぐちゃになった感情に支配されて、それは得体のしれないものに心を潰されていくかのような。
 たすけて。叫びたいのに、引きつった喉から音が出ない。

「つむちゃんっ!」

 聞きなれた声。慌てふためいたようなその声に、ああ、影那がすぐに来てくれたのだと合点する。すり寄ってきてくれた白猫――『猫神』の力だろうか。よく分からないぐちゃぐちゃの感情が、少しだけ落ち着いていくのを感じる。涙を拭って息を吐き出せば、少しだけ視界がはっきりとして。

「――っ!」

 影那の攻撃をかわしながら尚、フードの男は自分を狙っているようだった。毛を逆立てながら紬希を守るように動いてくれる『猫神』に翻弄されて、その手は何とか紬希には届いていない。
 そうこうしているうちに、その手が今度は影那に伸びてしまうかもしれない。そう考えてしまうと、先程とは違う恐怖が紬希を襲う。動けない、足は竦んでいる、それでも。
 何かないかと周囲を見回し、見つけたのは庭先のコンクリートブロック。すいません借ります、と心の中で謝って、紬希はそれを操った。力はいつも通り使えることにほっとする。しかし、紬希の動きに気付いたらしいフードの男が振り返り。
 危ない、と思った瞬間、無意識に男の頭を目掛けてコンクリートブロックが飛んでいった。


「うー……ごめんなさい影那さん……」
「大丈夫。よしよし、怖かったね。助けてって呼んでくれてありがとう」

 その後。
 コンクリートブロックの直撃を受け、男は昏倒した。一瞬殺してしまったのではないかと相当焦ったが、その心配はないようでほっとする。男の身柄については影那が信司に連絡し、信司がどこかに連れていった。その際に信司に治療を、と声を掛けられたのだが、思わず首を横に振ってしまった。初対面のときに感じた妙な雰囲気がやけに強く感じたことと、フードの男に襲われた後のせいか、どうにも恐怖心が先だってしまったのだ。代わりに、と『猫神』が好き放題撫でさせてくれた。それだけで気持ちが少し落ち着いたのは、『猫神』が何らかの力を使ってくれたからなのだろう。
 ある程度紬希が落ち着いたタイミングで、いつまでも道端にいるのも、ということになり、猫カフェへと場所を移した。店に入った瞬間に琥珀と、そしてもう一匹、黒猫が走ってきた。スミ、と名付けられているその黒猫が、紬希を見上げてなおん、と鳴く。

「最近ね、スミに色々と調べものしてもらってて。つむちゃんのところにすぐ行けたのも、スミのお陰だよ」
「ありがと、スミくん。めっちゃ助かった……」
「にゃーう」
「琥珀ちゃんも心配してくれてたん? ごめんなあ、ありがとう」

 2匹を撫でれば、どちらも嬉しそうに目を細めてくれて、そんな姿にほっとする。
 影那がいなければ、そして影那に助けを求めることに思い至っていなければ、今頃どうなっていたのだろう。考えるだけでぞっとする。

「つむちゃん、もう一人暮らしする家にお引越ししたんだよね」
「あっ、はい」
「じゃあ落ち着いたら送っていくね。とりあえずゆっくりしていって」
「や、でもそれはさすがに悪いし……」
「あんなことがあった後で、つむちゃんを一人にしておくのは私も心配だから」
「……ハイ。ありがとう、影那さん」

 影那は本当に紬希のことを心配してくれているのだろう。紬希の返答にほっとした表情を見せて、温かいものでも、とキッチンの奥に入っていった。

 ――パイ屋が突然閉店したことを知ったのは、その数日後。
 その真実を、紬希は知らない。

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