Pie - 01

 大学入学を間近に控えた春のこと。
 冗談で言ったバイトの話を、ぜひよかったら、と影那に誘ってもらい、一応きちんとした面接を受けた上で、紬希は猫カフェで週2回バイトをすることになった。よくよく考えなくても、猫の神憑りであるとはいえ相当数の猫の面倒を一人で――一人と一匹で見ている影那と『猫神』である。人手が増えれば助かるから、ということで、快く雇ってもらえたのだった。
 少しずつ仕事を覚えながら、今までとは違う形で猫たちと仲良くなりつつあった、ある日のこと。

「パイ屋さん?」
「そう。近所に新しくできたみたいで。一緒に行ってみない?」
「え、ぜひ!」

 イートインもテイクアウトも可能な、洒落た雰囲気のパイ屋。そういえば最近後輩から美味しいパイ屋ができて、という話を聞いた覚えがある。時期を考えれば、同じパイ屋を指していると考えていいだろう。食べておけば話のネタにもなるし、何より影那とプライベートでもそうした付き合いができるのは、単純に嬉しい。
 そんなわけで、猫カフェの定休日に二人はそのパイ屋を訪れることになったのだった。

「いらっしゃいませー」

 出迎えてくれたのは、恐らくバイトなのであろう女性のスタッフ。店内はそれなりに盛況だ。ショーケースに並べられたパイはきらきらとしていて、どれも美味しそうに見える。

「お店、結構混んでるね。買って帰って一緒にカフェで食べようか」
「え、いいんですか?」
「最近、つむちゃんはお客さんモードで猫たちと遊んでないでしょう? たまにはみんなでゆっくりするのもいいんじゃないかな」
「えー……じゃあお言葉に甘えて!」

 混雑しているときに、わざわざ待ってイートインで食べる必要もない。猫たちと過ごせるのであれば、紬希にとってもその方が楽しいのは間違いない。
 そうと決まれば話は早い。ショーケースの中から紬希はチェリーパイ、影那はアップルパイを選ぶ。スタッフの女性がきちんと白い箱に詰めてくれたパイはやはりきらきらとしていて、食べるのが楽しみになる。
 他愛のない話をしながら、二人で猫カフェへと戻る。定休日といえど、店内で猫たちは普通に生活をしている。入ってきた二人に反応する猫もいれば、我関せずとばかりに毛繕いをしていたりと様々だ。
 紬希がソファに腰掛けると、すぐにとと、と酔ってきたのは錆び猫の琥珀。当たり前のように紬希の横を陣取って、寄り添って丸くなる姿を見ると本当に可愛くて仕方がない。よしよしと頭を撫でると、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らす。

「ん-っ……今日も可愛いっ……!」
「ふふ。琥珀は本当につむちゃんに懐いてるね。あ、つむちゃん、ジンジャーエールでいい?」
「あっ、はい! すいません」
「いいのいいの、今日はつむちゃんはお休み。……よし、はい、気を付けてね」
「はあい、ありがとうございます」

 柔らかな色の炭酸と、猫の模様があしらわれた白い皿に乗せられたチェリーパイ。フォークでさくりと切って口に運べば、程よい甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がっていく。

「おいしー……! 影那さんも一口どうですか?」
「いいの? じゃあ私のアップルパイも一口どうぞ」
「やった! アップルパイも気になってたんですよ」

 さく、さく。
 パイ生地が割れる音に、談笑が乗って。
 始まりは、そんなささやかな風景からだった。


「つむさあ、ラパンってパイ屋できたの知ってる?」
「ん?」

 そんな話題が友人から振られたのは、大学の入学式を数日後に控えたある日のこと。
 サポートでドラムを叩いてくれと頼みこまれ、スタジオ練習に駆り出され、散々叩いた後の休憩時間のことである。少し考えた後で、ああ、あのパイ屋かと合点して。

「ちょっと前、バイト先の店主さんと一緒に行ってきたな。めっちゃ美味しかった」
「え! ねえそのときさ、パイ屋の店長いた!? イケオジっていう噂で!」
「ん? いや、女の子しかおらんかったと思うけど……」

 思い返してみても、客を含め店内は女性なかりだったはずだ。そっかあ、と友人は残念そうに肩を落とす。
 店長ということは、あのパイを作っているのはその人なのだろうか、とふと思う。紬希が訪れた際はバックヤードにいたのかもしれない。恐らく、時々店に出てきていることがあり、そこで噂が流れだしたのだろう。

「イケオジかー。会ってみたいん?」
「イケメンは目の保養。なのでつむも目の保養」
「真顔で言うやん。……、えーじゃあ一緒に行ってみる? 今日は無理やな……明後日の練習終わりとか」
「ホント!? やったぜ、つむとデートの権利をゲットした」
「他の男目当ての癖にー」
「つむが一番だから拗ねないでー」
「何よそれ」
「あ、そうそう。そのパイ屋さん、特別なパイがあるんだって!」
「特別なパイ?」

 きょとんと首を傾げる紬希に、そう、と友人は頷いた。
 何でもメニューには載っていない、そして当然ショーケースの中にも陳列されていない、特別なパイがあるのだという。そのパイを食べるためには合言葉が必要で、しかしスタッフに聞いても教えてはもらえない。SNS等でもその合言葉は出回っていないが、時折店に出ている店長に手に入れた合言葉を言えば、その特別なパイを食べることができるのだという。

「へー……あそこのパイ美味しかったし、それは気になるな……」
「でしょー。あと私は単純に店長さんが見たい」
「ガチやん」
「会話したいからあわよくば合言葉が知りたい」
「ガチやん……」
「ってことでつむー、もし合言葉ゲットしたら教えて?」
「うーん。まあ望み薄やけどなあ、そこは……」

 SNSにも出回っていないというなら、合言葉はごく少数の口コミのみということだろう。簡単に手に入るものでもなさそうだ。店長自身に会うことができれば、そのときは『サイキッカー』としての力を使えば合言葉を手に入れることができるかもしれないが、紬希としては自分の力をそういった方面に使いたくない気持ちもある。
 ふと、影那はこの噂を知っているだろうか、と考える。あのとき、影那もパイを気に入った様子で食べていた。猫カフェの近所にあるということもある、何か知っているだろうか。
 善は急げだ。思いついたときに聞いておかないと、後回しにして忘れてしまう。影那に特別なパイのことを知っているか尋ねるメッセージを打って、しかしそのメッセージに既読がつく前に練習が再開となり。
 その間に返ってきた、影那からの返事は。

【その特別なパイはやめといた方がいいかも……】

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