Lavender - 02
とはいえ、大学生活への準備をしなければならない身である。
一人暮らしのための物件を探しに行ったり、入学後の諸々の準備に追われていて、正直C-ONどころではなくなっていた。卒業が近く、後輩からその前にと色々誘われてしまうのも一因である。
猫カフェに行く時間も取れずにいたある日、それは突然紬希の前に現れた。どこか聞き覚えのある、電子音と共に。
「……え、」
突然の出来事に、一瞬反応が遅れた。ごう、と襲い来る黒い影を避けきれず、吹き飛ばされる。足を擦りむくいやな感触に眉を寄せながらも、紬希はそれと向かい合った。間違いなく、あの日猫カフェで影那を襲っていた黒い影だ。
――危ないかもしれないな、と思ったら。
そう言われたことをすぐに思い出して、紬希はまずスマートフォンを取り出した。急いで呼び出した連絡先は、影那のもの。
『はい』
「影那さんっ、すいません例のアレ出てきたんですけど!」
『すぐ行きます! 今どこですか?』
おおよその現在地を伝えれば、なるべくそこから離れないようにという言葉と共に通話は切れた。離れられるなら離れたいところだが、この状況で黒い影が紬希を逃がすようなことはしないだろう。
逃げられないのであれば、戦うしかない。再びごう、と何かが迫ってくる感覚。咄嗟に近くにあった工事の看板を引き寄せて、盾にする。大きくへこんでしまったが、気にしていられない。
衝撃で手がじんじんと痛んでいる。ふわりと頭の片隅に嫌な感覚が現れて、紬希は努めてそれから意識を逸らした。攻撃を受けた際に、何らかの影響を及ぼすタイプなのかもしれない。それこそ、噂では奇行に走った人がいるという話だった。精神的に何か影響があってもおかしくはない。
少なくとも、影那が来てくれるまでは持ちこたえなければ。深呼吸で自分を落ち着かせ、そのまま手の看板を黒い影へと飛ばす。ぐらりと黒い影が揺らぎ、紬希は看板を自分の方へと引き戻した。あまり周囲に被害を及ぼしたくはないし、耐久性に難はあるかもしれないが、この看板は攻守に使える。
――と、そのとき。眼前に、上空から女性が降ってきた。猫のようにというよりは、動きは猫そのものだ。
「……影那さん!?」
「大丈夫? 待たせてごめんなさい」
本当に急いで来てくれたのだろう。ちらちらと視界に入る猫耳と尻尾は、『猫神』の力によるものだろうか。ふらふらとした黒い影はしかし、影那には目もくれずに再び紬希を狙う。慌てて看板で防いだものの、ばき、と鳴った音から考えると、もうこの看板は駄目かもしれない。
しかし、そこでできた黒い影の隙を狙い、影那がその爪を振るう。その彼女の服のポケットから、何か声がした。スマートフォンが通話状態になっているのだと気づいたそのとき、もうひとつ現れた『何か』。その『何か』が、無造作に黒い影に手を伸ばし。
「怪我、本当に大丈夫?」
「こんなん掠り傷ですよ、全然! すぐ助けに来てもらえて助かりました、ありがとうございます」
「前助けてもらったから、おあいこだね」
――その後。
黒い影は『何か』と共に消えていった。あれは何なのかと問えば、影那曰く信司が寄越した援軍なのだという。きょとんとしている間に、振り返った影那が紬希の怪我を見つけ、手当するからと猫カフェに連れてこられ、現在に至る。
黒い影が消えたからなのか、C-ONの曲は一切聴くことができなくなっていた。配信ページは残っているが再生もダウンロードもできないという形になっている。恐らくきちんと倒せたのだろう、というのは影那の弁だ。
「紬希ちゃん、その、もしかしてなんですけど、よくああいうことに巻き込まれたり、する?」
「あー……まあ、そんなしょっちゅうじゃないですけど……」
ない、とは言えない。最初の頃は何が何だか分からなかったが、徐々に対応できるようにはなった。『サイキッカー』としての力を相談するような相手もいなかったので、一人でどうにかしてきた。今回のように助けてもらえたのは初めてで、いっそ運がよかったな、とまで思ってしまう。
そう、と呟いた影那は、そのまま少し考え込んで。
「……あの、良かったらなんですけど。せっかく連絡先も交換したし、何かあったらいつでも相談してください。力になれると思うから」
「え。……え、いいんですか?」
「もちろん。紬希ちゃんが悪い子じゃないことは、琥珀が知ってるし」
ね、と影那がソファの上の琥珀に声を掛ける。邪魔をしてはいけないと感じていたのか、ずっと見守ってくれていた。にゃあ、と鳴く琥珀に、何となく擽ったい気持ちになって、へへ、と紬希は笑い。
「えーじゃいっそこの猫カフェでバイトさせてもらったりとか」
「え」
「あっジョーダンですよ、めっちゃ図々しい! あはは」
「従業員雇ったことなくって」
穏やかな雰囲気になる二人を、カウンターの奥、キャットタワーの上から眺めていた白猫は、欠伸ひとつ。